東京地方裁判所 昭和36年(刑わ)2142号 判決 1965年5月22日
被告人 ひろしこと正木{日大}
明二九・九・二四生 弁護士
鈴木忠五
明三四・一二・一三生 弁護士
主文
被告人両名を禁錮六月に処する。
この裁判確定の日からいずれも一年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人両名の連帯負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
昭和三〇年五月一二日静岡県三島市田町一、三九〇番地丸正運送店洋服部において、同運送店の経営者小出ちよ子(当時三二歳)が絞殺死体となつて発見されたが、右事件については同月三〇日大一トラツク急送株式会社に勤務していた運転手の清水こと李得賢、及びその助手の鈴木一男の両名がその犯人として検挙され、強盗殺人罪として静岡地方裁判所沼津支部に起訴された。そして昭和三二年一〇月三一日同裁判所において同罪により李得賢は無期懲役に、鈴木一男は懲役一五年に夫々処せられた。右両名はこれを不服として東京高等裁判所に控訴したが、同裁判所は昭和三三年一二月九日右控訴を棄却した。右両名とその弁護人であつた被告人鈴木忠五は更に右控訴棄却の判決を不服として夫々上告したが、最高裁判所は昭和三五年七月一九日決定をもつて右上告を棄却したため同月二四日右両名の有罪は確定した。
被告人両名はいずれも弁護士であつて、被告人鈴木忠五は右李得賢ら両名の控訴審及び上告審の弁護人であり、被告人正木{日大}は上告審係属中の同年三月二八日より右被告事件の弁護人となつたものであるが、
第一、被告人両名は、右事件が上告審に繋属中である昭和三五年三月下旬連名で「昭和三〇年五月一二日静岡県三島市丸正運送店洋服部において、小出ちよ子が絞殺された事件の犯人は前記李得賢及び鈴木一男であるとして起訴され、該事件は目下最高裁判所において審理中であるが、右ちよ子は右両名によつて殺害されたものではなく、同女は同店階下六畳の寝室において就寝中、その兄小出栄太郎及びその妻幸子又はそのほか同夫婦と意思を通じた者によつて絞殺されたものであり、更にその死体は同人等によつて犯行現場偽装のため洋服部の店先に運ばれたのである」旨の事実を記載した上告趣意補充書を作成し、これを同月二八日最高裁判所第三小法廷に提出したが、その頃同補充書の内容を社会に公表することを企て、被告人両名共謀の上、同月末日頃司法記者クラブ幹事に対し、前記事件に関し翌四月一日重大発表をする旨あらかじめ通知しておき、同日東京都千代田区霞ヶ関一丁目一番地の最高裁判所内司法記者クラブ室に赴き同所において、不特定かつ多数人である朝日新聞社社会部記者大塚郁哉等約二〇名の各社の新聞記者に対し右上告趣意補充書の内容を交々説明し、右記者の質問に答え、或は死体並びに犯行現場の写真を展示する等して前記小出栄太郎等に関する事実を発表し、もつて公然事実を摘示して同人の名誉を毀損し、
第二、前記強盗殺人被告事件は同年七月一九日上告棄却となり、李得賢及び鈴木一男に対する有罪判決は確定したが、被告人両名は株式会社実業之日本社編集局長兼第一出版部長神山裕一らと共謀の上、前記小出ちよ子の殺害事件につき「告発」―「犯人は別にいる」―と題し、「小出ちよ子殺害の真犯人は李得賢、鈴木一男ではなく、同女の兄小出栄太郎、同妻幸子及びちよ子の弟小出博の三名である。右三名は丸正運送店の経営の実権及び同女の財産等を奪取する目的を以て共謀して昭和三〇年五月一一日午後一一時頃同店階下六畳間において就寝中の同女を絞殺し、これを同店出入りの大一トラツク急送株式会社のトラツク運転手らの犯行であるかのように偽装するためその死体を同店内洋服部の店先に運び出す等の偽装工作を施したものである。」旨を内容とする原稿を共同して執筆し、これを昭和三五年一〇月二〇日付単行本(A5版二八五頁)として東京都中央区銀座西一丁目三番地所在の前記実業之日本社より七、〇〇〇部出版し、うち約四、〇〇〇部をその頃同都内その他において発売頒布し、もつて公然事実を摘示して、右小出栄太郎、同人の妻幸子及び小出博の名誉を毀損し
たものである。
(証拠の標目)(略)
(当事者の主張に対する判断)
第一、被告人両名並びに弁護人ら(以下単に被告人らと総称する)は、被告人両名の各所為はいずれも公共の利害に関する事実に係り、その目的は専ら公益を図るに出たものであり、かつ真実に符合するものであるから、刑法第二三〇条ノ二第一項に該当し、従つて無罪であると主張する。
一、公益目的について
〔一〕 判示各摘示事実は前判示のとおり小出栄太郎、その妻幸子及び弟小出博が強盗殺人に関する罪に該当する行為をなしたというのであり、かつ、東京第一検察審査会会長中田喜代次外一〇名作成の議決書(写)によると小出栄太郎、同幸子、同博は右のような行為について未だ公訴の提起を受けていないことが認められるので、右摘示事実は右法条第二項に該当しこれを公共の利害に関する事実と看做されなければならない。
〔二〕 次に被告人両名が果して専ら公益を図る目的のもとに判示各所為に出たか否かを検討するに、検察官は被告人両名が事実を公表するにあたつてとつた手段方法、摘示事実の内容あるいは判示各所為に出た動機に徴すると、公益目的以外の他の動機目的が多分に介在していたことが推認されるから判示各所為が「専ら」公益を図る目的に出たものとは認めがたいという。しかし、刑法第二三〇条ノ二第一項にいう「其目的専ラ公益ヲ図ルニ出テタルモノ……」とは必ずしも公益を図る以外の他の目的の介入を絶対的に否定する趣旨と解すべきものではなく、若干私益等他の目的が混入していても、公表に及んだ主たる目的が公益を図ることにある事実が認定できるならば、それをもつて十分と解するのが相当と考えられる。いまこれを本件についてみるに、なるほど検察官の指摘するように、被告人両名が前判示第一の如く新聞記者らに事実を公表するにあたつては、予め司法記者クラブの幹事に対し重大発表をする旨連絡して司法記者を参集させた上その席で発表するという被告人両名からの積極的な働きかけがなされているし、また判示第二の著書「告発」の執筆出版にあたつても、当時被告人正木は主として著述活動によつて収入を得ていたため、「告発」の出版によつて得られる印税を自身の生活費等に充てることを予め期待していたこと、また栄太郎から被告人両名の判示第一の所為についてなされた名誉毀損罪の告訴に対し被告人両名の防禦的意図をも含めて「告発」の執筆出版に及んだものであることは、被告人正木自身当公判廷において自認しているところであり、また著書「告発」の内容の一部には検察官所論の如く、李得賢及び鈴木一男両名(以下単に李得賢ら両名という)に対する強盗殺人被告事件の上告審における調査を担当した最高裁判所調査官吉川由已夫の言動を非難し、その私事にわたる記事や「日本のペリー・メイスン」という見出しのもとに、被告人正木の弁護士としての手腕・業績を称賛した記事など前判示事実の公表と直接関係がないと認められる記事の散見されることは、押収にかゝる著書「告発」(昭和三七年押第八号の一一)の記載の内容に徴して明らかである。
しかし、被告人両名の当公判廷における各供述によれば、被告人両名が判示のように事実を公表するに至つたのは次のような経緯によるものであることが認められる。
すなわち、被告人鈴木は東京高等裁判所に係属した李得賢ら両名に対する強盗殺人被告事件の控訴審の弁護を担当し、その審理において右両名の寃罪を主張して事実誤認を理由に原判決の破棄を求めた。しかし、同裁判所は、昭和三三年一二月九日右各控訴を棄却し、これを不服とする被告人鈴木と李得賢ら両名は更に上告の申立をしたため同事件は上告審に係属することとなつた。そして被告人鈴木は右上告審の弁護をも引続き担当することとなつたが、右事件の弁護を担当した当初より李得賢ら両名が右事件の犯人であることに強い疑念を抱いていたため、右事件が上告審に係属後被告人正木に対し右の事情を説明してその弁護に協力方を求めた。そして被告人両名は共同して右事件記録及び証拠物について更に新たな観点から原判決の当否について検討を試みた結果、李得賢ら両名が右事件の犯人ではなくて、実は右事件の被害者である小出ちよ子の兄栄太郎とその妻幸子、弟の博ら同居の家族の犯行によるものであるという確信を抱くようになつた。そこで被告人両名は李得賢ら両名の寃罪を晴らすべく、同三五年三月二八日最高裁判所に対し共同して作成した上告趣意補充書を提出すると共に、最高検察庁検察官に対してもその写を提出して、真犯人は被害者の家族ら内部の者であると思われるから、右事件についての再捜査をされたい旨を申し入れた。ところが被告人正木はその翌二九日かねてから懇意にしていた最高裁判所の記者クラブ所属の新聞記者から最高検察庁は右事件について再捜査する意思がないといつていた旨を聞知した。こゝにおいて被告人両名は協議の結果、最高検察庁など捜査機関が再捜査に乗り出さないかぎり、証拠資料を蒐集する組織と権限をもたない弁護人としては到底自らの努力のみによつて李得賢ら両名の寃罪を晴らすことはできないと考え、このうえは新聞の報道等の方法によつて真犯人が栄太郎らである事情を世人に訴えて世論を喚起し、寃罪の証拠の蒐集に協力を求め、ひいては右事件を審理する最高裁判所の職権発動による原判決破棄を促すことを企図して判示第一の行為に及んだ。ところがその後同年五月二日被告人両名は小出栄太郎から右判示第一の行為について名誉毀損罪で告訴されるに至り、また最高裁判所が同年七月一九日決定をもつて李得賢ら両名の右上告申立を棄却したため、右告訴に対する自からの防禦を図る必要に迫られると共に、上告棄却の決定によつて右事件の審理という寃罪を証明する場を失つた。そこで被告人両名は更に協議の結果、李得賢ら両名の寃罪を晴らすためには、右新聞記者に対して発表した右事実の詳細を公表して、右両名の寃罪を証明する資料の蒐集について世人の協力をもとめ、もつて再審請求の途を拓くに如くはないという結論に達し判示第二の犯行に及んだものである。
右の事実公表の経緯に徴すると、その直接の主たる目的ないし動機は李得賢ら両名が犯人とされた前記小出ちよ子を殺害して金品を強奪した事件(以下丸正事件と称する)について、真犯人は栄太郎ら被害者方内部の家族であることを確信し、右事情を公表して李得賢ら両名の寃罪を晴らすことにあつたものといわなければならない。そして前判示の新聞記者らに対する発表や著書「告発」の出版は、いずれも右事実公表のための手段としてなされたものであるから、その発表の方法が、たとえ、前記のように被告人両名の側から新聞記者らに対する積極的な働きかけによつて行なわれたとしても、かゝる事情は、単に被告人両名において右事実が各新聞等に掲載されてひろく社会に報道され、もつて前記のように世論の喚起、世人の協力等所期の目的が達成されることを期待してなされたものということができ、なんら所論のようにそれが公益目的に藉口した被告人両名の売名等不当な動機目的の存在を疑わしめるものではない。
また著書「告発」の出版における前記認定のような私的な利益に関する目的の存在も、それ自体の内容が示すとおりいずれも副次的なものであり、また本来の公表目的と直接関係を有しないと認められる前記の記事も右事実の公表に附随して傍論的に書かれたに過ぎないものであることは、右「告発」の記載内容に徴して明らかであるから、たとえ、被告人両名が前記吉川調査官に対する怨恨等私の目的或いは自身の売名等の目的をもつてこれを書いたものであるにせよ、それは副次的な目的に過ぎないのであつて、かゝる目的の存在は未だ「告発」の出版によつて事実を公表するに至つた主たる目的が李得賢ら両名の寃罪を晴らすことにあつたことを否定する事由とはならない。そして刑事被告人ないしは有罪判決の刑に服する者が寃罪であるか否かは単にその者個人の利益にとどまらず、国家刑罰権の存否という公益につながる問題であつて、もとより国家もこれに無関心であることはできないから、その寃罪を晴らすことを主たる目的として栄太郎が真犯人であることを指摘した被告人両名の各所為はいずれも前記法条にいわゆる専ら公益を図る目的に出でたものといわなければならない。
二、本件各摘示事実の真実性について。
〔一〕 被告人らの主張
本件摘示にかゝる事実が真実であるという主張は後に列挙するとおり多岐に亘るがこの主張の問題点を分類列挙すれば次のとおりである。
〔A〕 丸正事件の犯人は李得賢ら両名ではなく、被害者方内部の者であること。
(一) 犯行の時刻について。
(1) 死体発見時に既に死体硬直が存在したこと。
(2) 死体解剖による胃内容物の消化状況。
(3) 死体発見時の体温の低下状況。
(4) 事件発生当夜丸正運送店内から洩れた電灯の光について。
(二) 犯行の場所について。
(1) 犯行の場所が洋服部の土間ではないこと。
(2) 絞殺時のちよ子の姿態と犯行後死体の移動された形跡について。
(3) 死体発見時ちよ子の寝床からシーツが取り除かれていたこと。
(4) 死体及びその周辺の偽装手段について。
(三) 犯人の人数について。
(四) 確定判決が採用した証拠中、核心となる供述について。
(1) 事件発生当夜丸正運送店附近にある極東商会前路上に停車していた「大一」のトラツクを目撃した旨の酒井良明、大橋忠夫両名の供述の信憑性。
(2) 鈴木自白の信憑性。
(五) その他右事件が李得賢ら両名の犯行であるとは認めがたい事情。
〔B〕 丸正事件の犯人は栄太郎夫婦と博の三名であること。
(一) 犯行の動機について。
(二) ちよ子が殺害された際同女の鞄の中から強取された定期預金証書三通が博の住む居宅内から発見されたこと。
(三) 死体発見時並びにその後における栄太郎ら三名の不審な言動について。
(四) 博が事件発生前夜食べた落花生の薄皮がちよ子の死体に付着していたこと。
(五) 犯行時前後における博の所在について。
そして以上の諸点を総合してみると、その主張する犯行前後の態様は次のように構成される如くである。すなわち、栄太郎、幸子、博の三名(以下単に栄太郎ら三名という)は、ちよ子を殺害することを共謀して昭和三〇年五月一一日午後一一時頃丸正運送店階下六畳間に就寝中のちよ子の不意を襲い、共同して同女の抵抗を制圧し同女を仰向けの姿勢のまゝ格闘の上絞殺し、同女の顔面に付着した鼻腔出血が凝固し乾燥するまでの間押しつけた後、同女の両脚を縛つて約一時間ほど休憩した。その後栄太郎ら三名は犯行が同店出入りの大一トラツクの運転手らの犯行であるかのように装うため、翌一二日午前零時を過ぎた頃既に硬直が生じていた死体を同店運送部の土間の方へ運搬するため洋服部の店先四畳間まで運んで来た時、頭部を持つていた一人が後向きになつたまゝ洋服部の土間へ片足降りた瞬間体がねじれて仰向きにしていたちよ子の死体をうつ向きに傾けて落してしまい鼻腔にたまつていた血液をその場の畳の上にどつとこぼした。思いがけない出来事に暫く呆然としていた栄太郎らはやむなく死体をその場へうつ向きにしたまゝ放置して殺人の現場が恰もその場であるように装うこととし、尿で汚れた同女の寝床のシーツを取り除き、現金を入れた同女の鞄を死体の傍に置くなどして恰も同店出入りの大一トラツクの運転手らの犯行であるかのようにするため各種の偽装手段を施したものであるということになる。
〔二〕 被告人らの前記主張に対する栄太郎ら三名の弁解。
被告人らの右主張に対し栄太郎ら三名は、いずれも右主張事実を全部否認し、当公判廷において証人として事件当夜の行動について次のとおり供述している。
すなわち、栄太郎は、同年五月一一日午後九時少し過ぎ頃まで丸正運送店の洋服部で洋服仕立の仕事をした後就寝するため二階へ上ろうとしてちよ子の寝ていた六畳間を通つた際点け放しになつていたその部屋の電灯とラジオを消して二階に上つたが、その時ちよ子は既に就寝し眠つているように見受けられた。妻幸子は同日夕食後映画館へ映画を観に行き午後一〇時頃帰宅して裏口から入り奥の四畳半の間に点いていた電灯を消して二階へ上つたが、その時やはりちよ子は六畳間に就寝している様子であつた。幸子が帰宅した後栄太郎夫婦は間もなく就寝し眠り込んだが、翌一二日午前二時過頃一緒に寝ていた二男和宣がむずかり始めたため夫婦共目を覚まして二階で子供に小便をさせた後夫婦も用便を足すため相前後して階下へ降りた。その際六畳間と四畳半の間の境の襖が四・五寸あいていて、前夜栄太郎が消しておいた筈の六畳間の電灯も点けられ、寝床にちよ子の姿が見えず、しかも同女が平素現金を入れた鞄の収納場所に使つていた洋服ダンスの小抽斗が引き出されたまゝになつているのが見えたため、栄太郎夫婦はいずれも例によつて大一トラツクの自動車が貨物の積卸に立寄つたためちよ子が店先に起き出し運賃の清算でもしているものと思い、そのまゝ二階に上つて就寝した。ところがその後数分を経過しただけで未だ熟睡しないうちに杉山忠らに呼ばれて栄太郎がまず階下に降り、同人のちよ子を呼ぶただならぬ声に驚いて幸子も次いで階下へ降り、そこで始めてちよ子の殺害されたことを知つた。また博は同月一一日午後五時頃運送店の仕事を終つた後、近隣の酒屋へ行つて飲酒して再び丸正運送店へ戻り栄太郎が仕事をしていた洋服部四畳間の上り口に腰かけて先刻酒屋で酒のつまみに買つた落花生を食べながら約三〇分間栄太郎と雑談して、静岡県三島市田町一、三八四番地の二所在の自宅に帰り夕飯を食べ午後九時三〇分過就寝し、翌一二日午前二時三〇分頃同所へ馳けつけた栄太郎によつてちよ子の殺害を報らされるまで終始自宅にいたのであつて、その間丸正運送店へ行つたことはないというのである。
〔三〕 真実性の証明の程度について。
(一) 名誉毀損罪における摘示事実の真実性の証明については、有罪判決において必要とされる証明と同じ程度に合理的な疑いを容れる余地のない程度の蓋然性の存することを必要とするかどうかという問題が存する。この点について、弁護人は名誉毀損罪におけるいわゆる真実性の証明は、有罪判決において要求されるほどの高度の蓋然性を必要としないという。その理由とするところは、元来訴訟上における「事実」の判断は蓋然的判断でそこには反対判断を容れる余地も絶無とはいえないばかりでなく、訴訟上の「真実」の概念も、それぞれの法の領域において蓋然性の程度を異にする。すなわち、現行犯人逮捕、犯人の刑事訴追を例にとれば、これら逮捕される者及び訴追を受ける者はいずれも個人としてこれによつて名誉を失墜するなど人権の侵害を蒙るから、これらの者がかゝる不利益を受けるのは真犯人であることを前提とするものといわなければならない。しかしそれにもかゝわらず、現行犯人逮捕又は公訴提起の要件としては犯罪事実について有罪判決と同様の高度の蓋然性のあることは要求されない。それは公益の必要を顧慮した結果にほかならない。してみれば、公共の利害に関する事実について、公益を図る目的から他人の名誉を毀損すべき事実を摘示した場合も、これと同様公益上の必要の前には個人の名誉も若干の譲歩を迫られることのあるもやむを得ないものといわなければならない。それ故真実性の証明は有罪判決の証明におけるほど高度の蓋然性を必要とせず、公訴提起の段階において必要とされる程度のもので足りると解すべきであると主張する。
なるほど刑事訴訟法は現行犯人逮捕の許されるためには被逮捕者が果して犯人であるか否か、また如何なる罪を犯したものであるかの点について確信を要求していないし、また検察官が公訴を提起する場合も公訴を維持すべき確信があれば足り、有罪判決におけるような合理的疑いを容れる余地のないまでの蓋然性を必要とはしないけれども、これらはいずれも有罪判決のような終局的判断に関する事柄ではなく、有罪判決を求めるための手段としてなされる暫定的措置ないしはその前提行為であつて、その間には本質的な差異があり、所論のように起訴段階において検察官に必要とされる公訴維持の確信の観念を摘示事実の真実性の証明度に導入することは到底許されない。また訴訟法上における「真実」の証明は、過去に生じた事実を対象とするものであるから、普遍的法則の発見を目的とする自然科学上の真実の証明と異り、通常反証を容れる余地の残ることは所論のとおりであつて、その意味においては蓋然的な判断に過ぎないことはもとより当然のことである。そして名誉毀損罪における真実性の証明は後記第三に述べるとおり、違法性阻却の事由と解されるから、こと犯罪事実の成否に関するものである以上、その証明は合理的疑いを容れる余地のない程度の蓋然性を要するものというべきである。またこの挙証責任が被告人にあることは右証明の程度を軽減する事由とはならない。蓋し、右挙証責任は、被告人に立証義務を負わしめるという趣旨ではなく、真実証明はあくまでも裁判所の職権調査事項であつて、裁判所の努力にもかゝわらず証明が得られなかつたときには被告人の不利益に帰するというだけのものであるからである。それ故弁護人の右主張は理由がなく、当裁判所はこの点に関しては冒頭に述べたとおり合理的な疑いを容れる余地のない蓋然性を必要とすると考える。
〔四〕 概ね当事者間に争いのない事実。
もとより本件は被告人ら両名が丸正事件の真犯人は栄太郎ら三名であると指摘公表したことの真否を探求するにあつて、右事件の犯人が李得賢ら両名であるとした前記確定判決の当否を検討することを目的とするものではないことはいうまでもないけれども、既に確定判決により犯人であるとされている李得賢ら両名がちよ子殺害の真犯人であることを否定することのできる証拠があれば、それは栄太郎ら三名を犯人であると認定するための前提となる重要な間接証拠であることは疑いない。そこで栄太郎ら三名が犯人であることの前掲意味における真実性の証明が存するかどうかを探究するために、右に列挙した主張の順序に従い、その主張する諸点を中心にしてまず李得賢ら両名が犯人であるということを否定できる証拠があるかどうか、そして更には栄太郎ら三名が犯人であることを肯認すべき証拠が存するか否かについて順次検討を進めることとするが、まず最初に本件関係事実中当事者間の争点となつていない前提事実を略述しておく。
(1) 丸正事件の被害者方家族と丸正運送店内の模様。
小出綾子、小出博の司法巡査に対する昭和三〇年五月一二日付各供述調書、証人小出いうに対する当裁判所の尋問調書(昭和三九年六月二三日実施)、昭和三〇年五月一二日付司法警察員作成の検証調書二通(以下単に石塚検証調書と総称する)、当裁判所の検証調書、小出吉造の除籍謄本、小出栄太郎の戸籍謄本、登記簿謄本(丸正運送店の建物に関するもの)によると、次の事実が認められる。
丸正事件の被害者小出ちよ子(死亡当時三三才)は亡父小出吉造(昭和二七年一二月二五日死亡)母小出いう(当時六一才)の三女として生まれ幼時電車事故のため右腕を失い当時未だ独身であつた。吉造の死後、同人が生前「丸正運送店」という名称で営んでいた大一トラツクの三島荷扱所の営業は、ちよ子の弟博(当時二二才)が名義上の営業主となつたが、同人はその頃未だ一九才で同店の経営ができないため、ちよ子が博と妹綾子を手伝わせて同店の経営一切をきりまわし、これによつて得る収入によつて一家の生活を賄つていた。丸正運送店は静岡県三島市田町一、三九〇番地に所在したが、ちよ子は当時同店から数十米離れた同町一、三八四番地の二所在の住宅に母いう、妹綾子、弟博、甥の碩(当時九才)と一緒に居住し、こゝから丸正運送店に通つていた。ところが、夜間も大一トラツクの自動車が貨物積卸のため同店に立寄るので、その都度貨物の受渡、その運賃の清算や支払をする必要上綾子と交代で同店階下六畳間に泊つていたが、当時綾子は病身であつたため、ちよ子の泊ることが多かつた。
ちよ子の兄栄太郎(当時三九才)は洋服仕立職人で昭和二一年九月から丸正運送店の一隅で洋服仕立業を営み、昭和二三年一月に結婚した妻幸子(当時三〇才)とその間に生まれた二男和宣(昭和二六年九月九日生)と共に同店二階八畳間に居住していた。
丸正運送店は道路に接し南面して建てられた二階建の建物(建坪三六坪五合二勺、二階五坪)で階下は略中央で東西に仕切られ、その西側が運送店用のコンクリート土間で、東側は奥すなわち北側から四畳半、六畳、四畳間が順に並び、四畳間の南側は西半分が一坪の土間、東半分が板張りの間となつていて、四畳間並びに一坪の土間が運送店のコンクリート土間と接する境界はガラス戸で仕切りがされていた。そして四畳間と板張りの間が栄太郎の洋服仕立業の仕事場に使われ、六畳間は夜間ちよ子が寝室に使用し、二階は栄太郎家族の寝室に使用されていた。
(2) ちよ子の死体が発見されるに至つた経緯。
小出いうの司法巡査に対する昭和三〇年五月一二日付供述調書、高橋幸蔵の司法巡査に対する供述調書、杉山忠の司法巡査に対する同年五月一二日付供述調書二通、同人の司法警察員に対する供述調書、三枝孝四郎の司法巡査に対する同日付供述調書三通、小出栄太郎の司法巡査に対する同日付供述調書、前島盛の司法巡査に対する供述調書、証人三枝孝四郎、同杉山忠、同小出栄太郎に対する当裁判所の各尋問調書、石塚検証調書、医師鈴木完夫作成の同年六月一〇日付鑑定書によれば次の事実が認められる。
ちよ子は昭和三〇年五月一一日午後七時頃前記自宅で夕食を済ませた後、午後九時頃、「疲れたから今夜は早く寝る」旨いい残して、普段のように丸正運送店へ泊るため自宅を出た。その後間もなく三島市茶町一、八七六番地に住むいうの実弟高橋幸蔵がちよ子に借金の用事があつて同店へ同女を訪ねた。その際同女は既に階下六畳間で寝床に就いていたが、高橋幸蔵が訪れたため四畳間に起き出して同人を応待した。同人と間もなく用事を終つて同店を退去した。
その後大一トラツクの運転手杉山忠が運転し、助手三枝孝四郎が同乗する一七〇号車は東京から沼津本社へ帰る途中貨物を卸すため翌一二日午前二時三〇分頃丸正運送店に立寄つた。そして助手の三枝孝四郎が店内に入つて声をかけたが、一向に起き出して来る気配がなかつたため荷扱所の電灯を点けてみたところ、同女が四畳間にうつ向きになり手拭で口を縛られ頸部を腰紐で絞められて死んでいるのに気がつき、あわてゝ貨物自動車内で仮睡していた運転手の杉山忠を呼んで来て、同人らは二階にいる栄太郎を呼んだ。栄太郎は階下の呼び声に起きあがり階下に降り、四畳間にうつ向きになつていたちよ子の死体をひき起して仰向きにし、両脚を縛つてあつた腰紐を解き外してから直ぐに家人を呼びに前記いう方へ走つた。間もなくいう、綾子、博のほか近隣に住む前島盛らも同店に馳けつけて三島署にこれを急報した。同日午前二時四五分頃三島署員が同店に到着し、同日午前八時二〇分から死体とその周辺の状況について検証が開始され、死体の検証終了後同日午前九時五〇分から死体は三島市小中島四三六番地社会保険三島病院において医師鈴木完夫によつて解剖に付された。その結果同女の死因は絞頸による窒息死であることが判明した。
(3) 李得賢ら両名の経歴と丸正事件発生当夜の行動について。
証人李得賢、同鈴木一男両名に対する当裁判所の各尋問調書、第一審第六回公判調書中の証人渡辺広二、第七回公判調書中の証人石川昭二、第一八回公判調書中の証人金子茂雄の各供述部分、石川昭二の司法警察員に対する供述調書、金子茂雄の司法巡査に対する昭和三〇年六月二〇日付供述調書及び大一トラツク運行証明書(同号の八三号)
によれば、李得賢は、昭和二六年暮頃から大一トラツクに雇われ、翌二七年一〇月から沼津本社のトラツク運転手として東京方面などに貨物を運送する仕事に従事していた。鈴木一男は、昭和二六年一一月同会社に雇われ、昭和三〇年三月から沼津本社のトラツク運転助手となつたが、同年四月から李得賢の助手となり一緒に同社の一〇五号車に乗るようになつた。同人らは、同年五月一〇日夜同号車に乗つて東京を出発し翌一一日午前四時大一トラツク沼津本社に帰つた後、李得賢は、同社二階の自室で、鈴木一男は、沼津市我入道津島町二六八番地自宅で夫夫休息をとつた。そして翌一二日午前一時過ぎ遅くとも一時五分までに再び一〇五号車に乗つて沼津本社から東京へ向けて出発したことが認められる。
〔五〕 丸正事件の犯人は李得賢ら両名ではなく被害者方内部の者であるという主張について。
以下こゝでは前記二の〔一〕の分類列挙のうち〔A〕丸正事件の犯人は李得賢ら両名ではなく被害者方内部の者であることを認めるに足りる証拠の存否についての検討に入ることにする。
(一) 犯行の時刻について。
この点に関する被告人らの主張は、「前記のようにちよ子の死体が昭和三〇年五月一二日午前二時三〇分頃丸正運送店洋服部の四畳間において、三枝孝四郎によつて発見された際死体はうつ向きになつていたにもかゝわらず、両脚共膝から下を略垂直に上にはねあげるという極めて不安定な姿態を維持していたことに徴すると、当時死体は死亡後既に三時間以上を経過して硬直を生じていたことが窺われるし、このことは死体解剖の結果胃の内容物の消化状態から推定される食後三、四時間という死亡時刻及び死体発見時死体は既に手で触れても冷く感ずるほど体温が低下していた事実とも符合するから、犯行の時刻は同月一一日午後一一時頃と認めるのが相当である。しかるに李得賢ら両名はその時刻には未だ沼津から東京へ向けて出発しておらず、いずれも沼津市内にいたことが明らかで、両名についてはアリバイが成立するから、両名が前記丸正事件の犯行に及ぶことは時間的に不可能である。」というにある。
前記認定のように、ちよ子が殺害されたのは、同年五月一一日午後九時頃から翌一二日午前二時三〇分頃までの間であり、一方李得賢ら両名は、一一日午前四時東京から沼津本社へ帰着した後、翌一二日午前一時過ぎ再び東京へ向けて出発するまでの間、いずれも沼津市内で夫々休息をとつていたことは冒頭に認定したとおりであるから、もし右事件がこの間に発生したとすれば李得賢ら両名には所論のとおり、犯行に及ぶ可能性はなかつたものといわなければならない。
(1) 死体発見時の死体硬直の有無について。
なるほど、最初死体を発見した三枝孝四郎は、死体発見当日である同年五月一二日警察の取調以来検事大島四郎が同年六月二〇日実施した検証、及び当裁判所の検証更には証人尋問を通じて、ちよ子の死体を発見した際死体はうつ向きになつたまゝ両脚共膝から下を略垂直に上に挙げていた旨指示並びに供述をしている。そして鑑定人大村得三作成の鑑定書、同人に対する当裁判所の尋問調書、及び同人の当公判廷における供述(以下単に大村鑑定と総称する)中には右三枝孝四郎の指示並びに供述に基づいて「かゝる状態は、死体硬直が起きていないかぎりとりうる姿態ではない。換言すれば、ちよ子は死後約三時間位膝関節を曲げた状態で置かれ、その間硬直が起り、しかる後うつ向きにされたため両下肢の膝から下部を上にあげる姿態を生じたもので、このことはうつ向きになつている死体を仰向きにし、左脚を人為的に伸ばした結果司法警察員の前記死体検証時に撮影した死体写真(昭和三七年押第八号の四一の二)が示すように右脚は膝関節で曲げたまゝ、伸ばされた左脚の下に入り込んでいるような状態になつたのである。」という趣旨の記載並びに供述がある。しかし、被告人らの右主張並びに右大村鑑定の前提をなす三枝孝四郎の前記供述並びに指示は、同人と同様略同時刻にちよ子の死体を目撃した前記杉山忠と小出栄太郎の両名がいずれも当裁判所の前記検証並びに証人尋問において同女の死体は右半身を下にして(その傾きの度合については両者の間に若干の差異はあるが)横たわり、両膝は「く」の字形に折り曲げていたが、両下肢は三枝孝四郎のいうように空中に立つてはいなかつた旨の供述と指示をしていることと対比しかつ後述するところに照して直ちに措信しがたく、このように対立する二つの供述指示のうち杉山忠と小出栄太郎両名の略一致する右供述、指示を捨てて、とくに前記三枝孝四郎のそれを措信すべき理由は発見できない。被告人らはこの点について杉山忠が目撃したのは既に死体が栄太郎によつて動かされた後の場面であつて、三枝孝四郎の目撃した最初の状況と異なる旨主張するが、証人杉山忠に対する当裁判所の尋問調書によれば、杉山忠はトラツクから降りて丸正運送店内に入つた後二階にいる栄太郎を呼んだこと、及び杉山忠は栄太郎が二階から階下へ降りてくるのを目撃したことが認められるから、杉山忠もまた三枝孝四郎と同様栄太郎が死体を仰向けにする以前の状態を目撃したのであつて、所論のように三枝孝四郎と杉山忠とが目撃した死体の状況は場面、時期を異にするものではない。
そして更に以下に述べる事情に徴すると、むしろ当時死体には未だ硬直が生じていなかつたことが窺われるのである。すなわち、もし三枝孝四郎のいうように両下肢共膝部から先が空中にあげられていて、しかもそれが死後硬直のためかように不安定な姿態が維持されたものであるとすれば、たとえ、栄太郎が前記のようにうつ向きになつていた同女の死体を仰向きにしても、なお両下肢は硬直のため依然両膝の部で折り曲げられたまゝの状態でなければならない。ところが、司法警察員山内隆が昭和三〇年五月一二日午前三時ないし三時三〇分頃までの間に撮影した(この事実は当審第三回乃至第六回公判調書中の証人石塚多作の供述部分、第六回公判調書中の証人山内隆の供述部分、第七回公判調書中の同人及び証人西山芳衛の供述部分によつて認める。以下死体撮影時刻に関する点はすべて同じ。)死体写真三葉(昭和三七年押第八号の内第四一の一ないし三)並びに現場写真撮影報告書の添付写真に基づいて死体の両脚の状況を観察すると、同女は仰向きの状態で左脚は膝の部分を略真直ぐに伸ばし、一方右脚は膝を「く」の字形に折り曲げて左脚の下に組敷かれていることが認められる。更に当裁判所の検証調書、検事大島四郎作成の昭和三〇年六月二〇日付検証調書を総合考察すると、栄太郎が前記のようにちよ子の死体を仰向きにする以前においては同女の顔面は斜左方に向けられていたことが認められる。そして大村鑑定によれば、死体硬直は通常大関節にまず生じ、次第に末梢の関節に及ぶことが認められるから、もし両下肢に死体硬直が生じていたとすれば、当然頸部にも硬直が生じているものといわなければならない。従つてもし両下肢に死体硬直が生じていたとすれば、たとえ栄太郎が前記のように仰向けにしても依然顔面は左方へ向けられたまゝの状態が維持される筈である。しかるに司法警察員山内隆が前記のように撮影した死体写真二葉(同号の第四一の二、三)並びに現場写真報告書の添付写真によれば同女の顔面は逆に右方に向けられていることが明らかである。かゝる事実に鑑みると当時死体には未だ硬直のなかつたことが窺われる。
しかし、この点について被告人らは、栄太郎が三枝孝四郎、杉山忠ら死体を発見した者に死体硬直の存在することを気づかれ、その結果自分を始め被害者方内部の者による犯行であることが発覚するのを虞れて死体を仰向けにし、両下肢を縛つてあつた腰紐を解く際に硬直を緩解したため左脚の膝部が伸ばされたもので、このことは死後三時間という死亡に接着した時期においては死体を動かすだけで容易に硬直を解きうるし、両下肢の硬直の程度が左右不均衡を生じていたことからも明らかであるという。なるほど、大村鑑定によれば死亡後三時間前後という比較的死亡に接着した時期においては、膝部に生じた硬直を解くためにさほど強い力を必要とせず、折曲げられている膝部を上から押さえるように力を加えるとか、或いは下腿を持つて膝部を引伸ばすという方法などによつて比較的容易に硬直を解きうることが認められるけれども、しかしかような方法によつて硬直が解かれるのは膝関節が動かされる結果、その関節部の筋肉に生じた硬直がもみほぐされることによるのであるから、膝関節が動かされないかぎり、たとえ単に膝部が動かされただけで該部に生じた硬直が緩解する筈はないわけである。そして栄太郎が前記のようにうつ向きの死体を仰向けにし両脚を縛つてあつた腰紐を解いたことは明らかであるが、それだからといつて当然に硬直が緩解される筈はなく、また栄太郎が硬直を緩解させるために前記のような作為を加えた事実を肯認し得る証拠は発見できない。
また、鈴木完夫作成の鑑定書並びに当審第八回公判調書中の同人の供述部分によれば、同人が死体発見当日の同年五月一二日午前九時五〇分死体解剖に着手するに先立ち死体の硬直の有無・程度を調べたところ、硬直は全身の関節に認められたが、左下肢は弱く右下肢には殆んど存在しなかつたことが認められるが、このように下肢の硬直の程度が左右に不均衡を生じていたことから、栄太郎が死体発見時に膝部の硬直を緩解したためかゝる結果を生じたということはできない。蓋し、死体硬直の緩解が死亡後五、六時間以内に行なわれた場合、再硬直を生ずることは法医学上明らかなところであるから、もし栄太郎が死体発見時に硬直を緩解したとしても、その後約七時間を経過した死体解剖時においては当然該部に再硬直が認められなければならない。それにもかゝわらず、当審における第八回公判調書中の証人鈴木完夫の供述部分によれば再硬直は存在しなかつたことが認められるからである。むしろ、両下肢の硬直の程度に前記の不均衡が生じたのは、次のような事情によるものと思われる。すなわち、死体の発見された現場において同日午前八時二〇分から午前九時五〇分までの間に撮影された死体写真(同号の四一の五)によると、右脚が前記のように膝部で折り曲げられて、真直に伸ばされた左脚の下に組み敷かれた形になつているのが認められるにもかかわらず、同日午前九時五〇分頃三島市小中島四三六番地社会保険三島病院において解剖に付される直前に撮影された鈴木完夫作成の鑑定書添付の死体写真によると、右脚は僅に曲げられているだけで前記のように左脚の下に敷かれてはいないことが明らかである。そしてこの間死体が丸正運送店から前記病院に警察係官により運搬され、また着衣が全部脱がされていることに徴すると、このように右脚の状況が変化したのは死体を運搬し或いは下着を脱がすなどした過程において右膝の屈曲が障碍となるのでこれを緩めるため相当の力を加えて右屈曲を直した結果ではないかと推測される。従つてその動作によつて当然右脚各関節に生じた硬直も必然的に緩解される筈であり、両脚の硬直の程度に前記のような不均衡の生じたのはその結果であることが推測される。そして一方鑑定にあたつた鈴木完夫はこの間このような右脚の姿態に変化の加えられた事情は全く顧慮せず、単に解剖時の死体の状態のみから前記のような硬直の程度を判断したことが当審における第八回公判調書中の同人の供述部分によつて明らかである。してみれば、硬直の緩解は鑑定時に極めて接着した時期において発生したと認めるのが相当であるから、前記のように死体硬直の鑑定時に、再硬直の存在しなかつたことは、もとより当然のことで不審とするにあたらない。従つて両下肢の硬直に左右不均衡のあることは栄太郎が硬直を緩解したことを疑うべき事情とは認めがたく、他にこれを認めるに足りる証拠はない。更に、証人鈴木完夫の前記供述部分によると、右脚の硬直の程度は左脚のそれに比較して跨関節、膝関節、足関節の各部に亘つて一様に低く、単に膝部の硬直のみが低かつたわけではないことが認められるから、かゝる点に徴しても栄太郎が両下肢に巻かれてあつた腰紐を解く際に膝部の硬直を緩解したということは容易に肯認しがたい。
以上述べたところから明らかなように、死体がうつ向きの状態から仰向けにされた際左膝部が真直に伸ばされたことや顔の向けられた方向の変つたのが所論のように栄太郎によつて硬直が解かれた結果であるとは認められない。そして死体が前記のように栄太郎によつて仰向きにされ、同時に両脚を縛つてあつた腰紐が解かれてから司法警察員山内隆によつて前記死体写真三葉(同号の四一の一ないし三)が撮影されるまでの間、栄太郎の報らせによつて現場に馳けつけた小出いうが死体の頸部や腕に手を触れたのみで、その他の者によつて触れられることなく、この間死体がそのまゝの状態で保存されたことは、証人三枝孝四郎、同杉山忠、同小出いうに対する当裁判所の尋問調書、当審における第六、七回公判調書中の証人山内隆、第七回公判調書中の証人西山芳衛、第九回公判調書中の小出栄太郎の各供述部分によつて明らかであるから、これを前記認定事実と併せ考えると、むしろ前記死体写真に示された左下肢の状態と顔面の向きの変化は、栄太郎が単に死体を仰向きにした際の状況を示すものであることが窺われる。なお、前島盛は証人として当公判廷において同人が現場へ馳けつけた際死体は顔を左方へ向けていた旨供述しているけれども右供述は冒頭に認定したように同人より一足先に死体発見現場へいつた小出いうが証人として当公判廷において当時既に死体は顔面を右方に向けていた旨供述していること、そして前記のようにその後前記写真撮影まで死体は動かされることなくそのまゝの状態で保存されたことに徴して措信しがたい。
以上認定した結果に徴すると、死体は当時未だ硬直がなかつたため、栄太郎が腰紐を解いた結果それまで腰紐を巻かれて右脚部で「く」の字形に屈曲していた左脚が拘束を解かれて、体躯が仰向きの状態に転回されるのに伴つて左膝は自然に伸ばされて右脚とは全く異なる形に変化し、また顔面の向きも同時に変化したものと認めるのが相当と考えられる。
結局、死体発見時既に死体硬直の存在が認められるという前記大村鑑定は死体の両脚が膝から先を空中に上げていたということを前提としているけれども、前提事実自体に誤りがあること前述のとおりであるから、この点に関する右鑑定結果はそのまゝこれを採用しがたい。
(2) 胃内容物の消化状況から推定される死亡時刻について
被告人らは、死体発見時既に死後三時間を経過していたという主張の論拠として、死体解剖の結果明らかになつた胃内容物の消化状態からみても食後三、四時間を経過した時期、すなわち、五月一一日午後一一時頃死亡したことが推定されるという。なるほど、鈴木完夫作成の鑑定書には「胃の内容物のみより考えると大部分は既に腸に移行し、胃内のものも軟化しているところから食後三、四時間と推定されるが、胃粘膜の性状を考慮に容れると、更に延長して食後五時間を経過せるものと推定される」という記載があり、一方ちよ子が五月一一日午後七時頃夕食を摂つたことは冒頭に認定したとおりであるから、これから推算すると、ちよ子の死亡時刻は五月一一日午後一〇時ないし翌一二日午前零時ということになるけれども、元来死後経過時間の推定については、法医学上死体を解剖した所見に基づく場合においても、死斑とか硬直、死体の冷却の度合、胃内容物の消化状態などすべての状況を総合して判定すべきものであつて、しかもその時刻もそれほど正確に測定しうるものではなく、ある程度の幅をもつた推定が許されるに過ぎないものであることはいうまでもないところで、これらの一つのみによつてこれを決定することは甚だ危険であり不確実であるとされている。殊に胃内容物の消化状態は当人の当時における肉体的健康、精神面の安定度合等によつて左右されるから単なる胃内容物の解剖所見は一つの参考となるに過ぎない。従つて、本件の場合右鑑定書の記載は、右に述べた意味での一資料とはなり得ても、決め手とすることはできない。
(3) 死体発見時の死体温度の低下状況について
杉山忠の司法警察員に対する昭和三〇年六月一八日付供述調書によれば、小出いうが死体発見直後栄太郎の報らせで丸正運送店に馳けつけた際死体の手に触れて「まあ、この子は冷たいよ」という言葉を発したことが認められるから、いうのかかる言動に徴すると、当時死体の温度は既に下降していたことが窺われる。そして医師北条春光の東京第一検察審査会に対する供述調書によると、直腸内における死体温度の下降状況は人によつて一様ではないが、一般的には、気温が摂氏一七度ないし一八度で、瘠せた人の場合は死後四時間位の間は一時間に一度、次の二時間位の間は一時間に一・五度、肥つた人の場合は死後三時間位の間は一時間に〇・六五度、次の四時間位の間は一時間に一度内外の割合で下降することが認められる。しかし、いうの右言動と右死体温度の下降に関する実験則を併せ考量しても死体の温度が果してどの程度下降していたかは到底推測することはできない。しかもいうは当裁判所の尋問に対し死体に触れた際感じた体温について「死体の左手に触れた時『冷い』という言葉を発したのは生きている人間に比べて冷いと感じたからであつて死体には温度は未だ残つていた」旨証言しているばかりでなく、皮膚の表面の温度は身体の各部位によつて一様ではなく、また手のように着衣の外に露出している部分は、着衣に被われている部分に比べて体温の低下はより顕著であると思われるから、単にいうの発した前記の言動から、所論のようにもし当時死体の温度・低下が一度前後に止まつていたならばいうが死体に触れた際冷いという筈がないとか、或いは死体温度の低下は一度前後に止まらずより一層顕著であつた筈であると推論することは相当でない。また当時直腸内温度を検査していなかつた本件においては他に死体発見時の死体温度を確めるに足りる証拠はなく、結局所論のいうの右言動は死亡時刻を推認するに足る資料とは認めがたい。
(4) 事件当夜丸正運送店内から洩れた電灯の光について。
所論は、五月一二日午前一時頃、ちよ子の就寝していた丸正運送店六畳間には電灯が点されていたが、かかる時刻に電灯が点されていたということは異常なことであり、このことから当時既に六畳間において犯行現場の偽装工作の行われていたことが窺われるという。
なるほど、証人小林さち子に対する当裁判所の尋問調書によれば、同女が五月一二日午前一時頃外出先から帰宅する途中、丸正運送店前東側の道路上に一瞬立ち止つてちよ子が未だ同店内に起きているかどうか窺つたところ、同店洋服部の内側から表ガラス戸に沿つて引いてあつたカーテンを通じて薄ぼんやりとした電灯の光が洩れているのを目撃した事実が認められる。そして証人小出栄太郎の当公判廷における供述によれば、ちよ子の就寝していた六畳間の電灯は栄太郎が五月一一日午後九時過ぎに洋服部での仕事を終えて二階に上る際消したことが認められるから、その後これを点灯しないかぎり、その電灯が前記のように表ガラス戸のカーテンを通して外へ洩れることはないものといわなければならない。しかし、たとえその電灯の光がちよ子の寝ている六畳間の光であつたにせよ、小林さち子がそれを目撃したのは瞬時の間に過ぎなかつたのであるし、また当時は、ちよ子が死体となつて発見される以前のことであるから、その電灯の光は、ちよ子が就寝後便所に立つなどなんらかの用事のため起き出した際、点灯したのではないかということも考えられる。また証人三枝久男の当公判廷における供述及び永井達子並びに芹沢修の検察官に対する各供述調書、司法警察員三枝久男作成の捜査報告書によれば、丸正運送店の西側に同店と並んで存在する永井達子方では五月一二日午前〇時頃から午前一時頃までの間階下東側にある風呂に家人が入浴し、その間浴室の電灯を点けていたが、ちよ子が殺害された後近隣の人々について聞込捜査に従事していた三島署員が小林さち子から前記事実を聞込むと共に、当夜前記のように永井達子方階下浴室の電灯が点けられていたことの聞込も得られたので、三枝久男ら三島署員は小林さち子が当夜認めた電灯の光が果してどの電灯から発したものかを明らかにするため同年五月二五日午後一一時頃小林さち子が電灯の光を認めた地点において実況見分を実施したところ、六畳間の電灯の光は障子戸やこれに沿つて吊られたカーテンに遮ぎられて殆んどそれと注意して見なければ判らない程の薄い光しか外部に洩れなかつたのに対し、隣家の永井達子方浴室の電灯の光は浴室東側のガラス窓からこれに面している丸正運送店西側のガラス窓を通じ更に洋服部の表ガラス戸を通じて表路上に洩れ、その明るさは、右六畳間の電灯の光に比して途中光を遮ぎる障碍が少いため点滅が容易に判る程の明るさであることが判明したことが認められる。従つて、右の事実に徴すると、小林さち子が認めた前記の電灯の光は永井方浴室の電灯の光ではなかつたかという疑いも存するから、さち子が当夜前記時刻に認めた同店の内側から洩れていた電灯の光が、果していずれの電灯の光か明らかではなく、従つて同女の認めた右電灯の光は一応の参考資料とはなつても、ちよ子の殺害に関係のある異常な出来事の起きていたことを示すものと速断することは相当でない。
以上犯行の時刻に関する主張について夫々検討を加えた結果を総合しても、丸正事件が所論のように五月一一日午後一一時頃発生したものであることを肯認するに足りる証明が十分でないばかりでなく、その後李得賢ら両名が沼津本社から東京へ向けて出発する翌一二日午前一時までの間に発生したことも窺うことはできない。それ故時刻の点において李得賢ら両名には犯行に及ぶ可能性がないという右主張は理由がない。
(二) 犯行の場所について
この点に関する所論は、犯行の行われた場所は鈴木自白のいうように死体の発見された同店四畳間傍らの土間ではない。また死体所見上ちよ子は仰向きの状態で殺害された上、死体は右四畳間へ運ばれた形跡があり、しかも絞頸時の排尿で汚れたちよ子の寝床のシーツが取り除かれていること。その他死体やその周辺に偽装手段の施された形跡のあることを考慮に容れると、犯行の場所は同店階下六畳間のちよ子の寝床の上であることは明らかである。一方六畳間には外部から犯人の侵入した形跡はない。してみると、犯人は李得賢ら両名のように外部から侵入した者であるとは認めがたいというのである。
(1) 犯行の場所が洋服部店先の土間ではないという点について。
この点に関し被告人らは、鈴木自白は「李得賢は同店洋服部店先の間において死体発見現場の四畳間まで起き出して来ていたちよ子を土間にひき降して、その場に立たせたまま背後から右腕で同女の頸部を絞扼し、右手で同女の口部を押さえた。そこで同女は両脚をもがいて抵抗したので直ちに鈴木一男が両脚を細紐で縛つてその動きを制した。」というのであるから、これによれば、犯行の行われた場所は右土間ということになるのであるが、(a)この土間は広さがわづか一坪を出でない狭隘な場所であるから、真実同所で犯行が行われたとすれば、犯人と被害者との間で行われた格斗のため当然周囲のガラス戸のガラスが破損し、更には四畳間の仕立台上の品物も散乱し、同室に置かれてある人台も転倒する筈である。しかし、土間の古下駄が散乱していたほかには同所にかかる犯行の行われた形跡は全く存在しない。(b)また鈴木自白のいうようにもしちよ子が四畳間から右土間にひき降されて前記のような方法で絞殺されたとすれば、当然裸足で土間に立たされた結果土間の泥や砂が足の裏にも付く筈であるが、かかる汚れは認められない。(c)もし右土間で犯行が行われたとすれば、犯行後死体は発見場所である四畳間の上に引き上げられたことになるから、当然死体は頭部を店の奥の方向に向けて倒れている筈である。それにもかかわらず、死体はその逆に頭部を店の入口の方向に向けて倒れていた。かかる事情に徴すると、犯行の場所は鈴木自白にいうように右の土間や洋服部の四畳間であるとは到底認めることができないと主張する。
右主張について検討すると、
(a) なるほど、鈴木自白には前記のように犯行が土間で行われた旨の供述がある一方、石塚検証調書には、同店洋服部の土間の古下駄が散乱していたことの記載のあるほか、右土間や店先四畳間に犯人と被害者との間に格闘の行われたことを窺わせるような事跡の記載はなく、その他の証拠を総合しても格闘の行われた形跡の窺えないことは所論のとおりである。しかし、また反面全証拠を総合しても、もし犯行が右土間で行われたとすればその時、当然に土間の周囲のガラス戸が破損し、四畳間に置かれてあつた人台が転倒するほどの激しい格闘が犯人と被害者との間で行われたことを認めるに足りる証拠はなく、却つて後記(三)に認定するように犯人は少くとも二人存在しこれが共同して犯行を実行したものと認められるのに対し、一方被害者のちよ子は冒頭に認定したとおり右腕を失つた隻腕の女性であること、そして大村鑑定により死体所見上ちよ子が試みた抵抗の痕跡としては僅かに頸部に巻かれた腰紐をとり除こうとした際自らの左手指で生ぜしめたと認められる索溝左側頸部にある軽い表皮剥脱と左上膊後面ほぼ中央の握傷と認められる大豆大の皮下溢血が存在するのみで他に格闘の行われた痕跡を認めることのできる何ものもないことに徴すると、犯人と被害者との間には所論のような激しい格闘が行われたものとは到底推認されない。なお、被告人らは死体解剖の結果心臓内に豚脂様凝固物の存在が認められたが、かかる場合は法医学上一般に死亡直前苦闘のあつたことを示すものとされているから、このことからも被害者が絞殺される直前犯人との間に激しい格斗が行われたことが推測されるという。なるほど、鈴木完夫作成の鑑定書によると、死体解剖の結果、右心室に多量の暗赤色の流動性の血液を認め、極く少量の豚脂様凝固物の存在したことが認められる。しかし、このことから直ちに犯人との間に格闘が行われたことまで推測することはできない。そしてその他格闘の行われたことを認めるべき証拠はない。それ故死体発見現場に格闘の行われた痕跡の存在しないことは、そこが犯行現場であることを否定すべき論拠とはならない。
(b) 司法警察員が死体について検証を行つた結果足の裏に土砂等の付着による顕著な汚れが認められなかつたことは当審の第五回公判調書中の証人石塚多作の供述部分によつて認めることができるけれども、また反面右供述部分並びに第六回公判調書中の同人の供述部分によれば、右洋服部の土間にはコンクリートが張られていて、その表面には落花生の薄皮が散らばつていたほか、とくに泥や砂などはさほど顕著には存在しなかつたことが認められるから、被害者の足の裏が泥や砂で汚れていなかつたという事実はそれによつて直ちに犯行の行われた場所が右土間であることを否定する事由とは認めがたい。
また果して当時ちよ子が右土間に引き降されたとすれば、落花生の薄皮が当然足の裏に付着するほど多量にまた一面に散乱していたか否か明らかでないばかりでなく、落花生の薄皮は一般にその性状に照らしこれを踏めば当然に足の裏などに付着するものとは思われないから、これが付着していなかつたことは必ずしも所論に副う事由とも認めがたい。
(c) また死体が発見された際、その頭部を南側、すなわち、土間の方向へ、足先を北側に向けて四畳間に横たわつていたことは冒頭に認定したとおりである。従つて死体の置かれた状態に徴すると、所論指摘のとおり犯人が土間に立たせておいた死体を四畳間に向けて押し倒して横たえただけのものでないことは明らかであるが、しかし犯行を土間で行つた後、死体を四畳間に上げる場合、必ずしも四畳間に向けて押し倒すという方法に限るものとか、或はそれが最も自然な仕方であるとも思われない。ただ、それが簡単な方法であるといえるだけである。それ故、単に死体の置かれてあつた状態、とくに頭部の向けられていた方向から、一応の疑問として所論のような考え方の生ずる余地はあつてもこれを理由にして犯行の場所が土間であることを否定する合理性は存在しない。
以上検討を加えたところからは未だ犯行の行われた場所が土間であることを否定するに足りない。
(2) 絞殺時のちよ子の姿態と犯行後死体の移動された点について
この点に関する被告人らの主張は、「司法警察員が撮影した死体並びに死体現場の写真を観察すると、死体の顔面やその附近の畳の面に血痕の付着が認められるが、これらの写真に基ずいて血痕の流れを仔細に観察してゆくと、ちよ子は鈴木自白にいうように立たされた状態で絞殺されたのではなく、仰向きにされて一〇分間以上もそのまま押さえつけられた状態で絞殺されたものであることが認められる。しかも死体の顔面附近の畳の面に亀の子形の血痕が認められるが、顔面と亀の子形血痕との位置関係、その血痕の大きさなどを考え合せると、この血痕は顔面を畳の上にうつ向きに接していた状態のもとで鼻腔から血液が徐々に流れ出て形成されたものではなく、死体が前記のように仰向きの状態に置かれている間に鼻腔内にたまつていた血液がその後顔面がうつむきにされた際一度にどつと畳の上にこぼれ落ちてその血液のうえに顔面が接着して形成されたものとしか考えられない。かかる死体所見に徴すると、ちよ子は仰向きの状態で殺害された上、死体は四畳間へ運ばれたことが明らかである。」というのである。
そこで右主張について検討するに、大村鑑定は、
(a) 「ちよ子が殺害された際着用していた衣類、即ちパンツ(昭和三七年押第八号の三三号)、腰巻(同号の三二号)紺色クローバー模様入の浴衣(同号の三四号)について紫外部吸収試験等による科学的検査を行つた結果、絞頸痙攣時に生じた排尿によるものと認められる尿斑の付着が証明された。そしてその尿斑の付着位置と状況に徴すると排尿時同女の腰部は右側を下に左側を上にしてやや仰向きの姿態をとつていたものと推測される。
(b) 司法警察員が昭和三〇年五月一二日午前三時から午前九時五〇分頃までの間に撮影した死体写真(フイルム写真)(同号の三九の一、二、四〇の一、二、四一の五)に基ずいて同女の顔面に付着した血痕を精検すると、死体の顔面には絞頸時痙攣によつて鼻腔内の毛細血管が破綻して生じた鼻腔出血が右側鼻孔から流出して右耳垂部に流下した血痕(以下A血痕という)と、右側鼻孔から流れ出た後右鼻翼から鼻の右側を上方に流れ右眼背下部の凹みに溜り眼瞼下部を顔の起状に従つて頬骨部まで流下した血痕(以下B血痕という)の存在が認められる。そしてこれらA・B血痕の成因について人体を用いて実験を行つた結果、頭部を後方に七・一度、顔面を右側へ一四・二度傾けることによつて形成されることが明らかになつた。従つて鼻腔内出血が生じた際ちよ子は顔面を仰向けやや斜右横にして頭部をやや後方に傾けていたものと推測される。」といつている。
右鑑定結果を総合すると、ちよ子は絞頸痙攣時には身体の右側を下に左側を上にしてやや仰向きの姿態で横たわり、顔面もやや右側に傾けて仰向けの状態にあつたことが推測される。所論はこの点に基ずいて、ちよ子は鈴木自白のいうように立たされたまゝの状態で絞殺されたのではなく、仰向きの状態で殺害されたものであるから、この点からもちよ子が寝床で就寝中のところを絞殺されたことが窺われるという。かように考えることは、確定判決を攻撃する立場からは一応もつともなことである。しかしながら、更に仔細に検討すれば、右鑑定結果は、直接には絞頸痙攣の生じた以後の被害者の姿態を推測させるにすぎないのであつて、これに先行する絞頸の開始から痙攣の生ずるまでの間の被害者の姿態を右の一事だけで推断することは、以下に述べるように疑問の余地が残るので、やや早計ではなかろうか。すなわち、大村鑑定によれば、絞頸時の尿失禁や鼻腔内の末梢血管の破綻による出血は痙攣に伴つて生ずる現象であり、絞頸の開始から痙攣の生ずるまでの間においてまず呼吸困難が生じ、次いで意識の喪失に陥り、これと相前後して絞頸時痙攣が発生するという経過を辿るのであつて、この間一般的に数分間という時間的間隔の存在することが認められる。それ故、たとえ犯人がかりに被害者を立たせたままの状態で絞頸に着手しても被害者が呼吸困難となり更には意識を喪失して仮死状態に陥るに伴い次第に抵抗力を失うことはもとより、身体の関節も弛緩して、むしろこれを立つたままの状態に支えておくことの方が困難となることが推測される。従つて、鈴木自白の如く背後から絞頸に着手した犯人がちよ子の腰部から上をその場に仰向きに自己の身体で支え、又はこれを横たえ、その後に絞頸時痙攣が起つたということも考え得る余地があるから、痙攣時に被害者が仰向きの状態に置かれていたからといつて、直ちに痙攣発生以前の数分間に亘る絞頸の加えられていた間の姿態も同様であるとは限らないのである。
更に大村鑑定はA・B血痕以外の顔面に付着した血痕や畳面上の血痕の形成された原因・経過について次のようにいう。すなわち、「前記死体写真によつて更にちよ子の顔面に付着した血痕を精検すると、A・B血痕のほか鼻尖を除きその左右並びに上口唇並びに右側顔面部にA・B流下血痕とは無関係にかつ方向を異にして付着している血痕の群(以下C群の血痕という)の存在が認められるが、C群の血痕はAB流下血痕が顔面に付着して凝固乾燥した後に付着したと認められる。また同女の顔面部に近い畳の表面に亀の子形の血痕一個の存在が認められる。そして顔面に付着したA・B流下血痕とC群の血痕及び亀の子形血痕の形成された成因について、人体等を用いて実験を試みた結果、次のような経過によつて形成されたことが明らかとなつた。すなわち絞頸時痙攣によつて鼻腔内出血が生じ、AB流下血痕が略同時に形成された。その後五分ないし一〇分間を経過して右血痕が凝固乾燥した以後において既に項部に死体硬直を生じていたちよ子の死体が仰向きの状態からうつ向きにされたため鼻腔内に潴溜していた半流動性の血液が畳面上にこぼれ落ち、その血液の上に死体の顔面部のうち鼻腔、上口唇の一部が接着した。そのため畳面上の血痕は鼻尖、上口唇に圧迫された亀の子形血痕のうち『亀の甲』に該る部分が形成された。その後一〇分間以上を経過した後死体は右腕を軸として左上肢を持つて回転させ再び仰向きの状態にされたため、そのはずみで右眼瞼下部の凹みに付着していた血液がズレ落ちて亀の子形血痕のうち『亀の頭部』が形成された。かくして一方同女の顔面には畳面上の血液に接着したことによつてC群の血痕が付着した。」と。
しかし、右鑑定結果には次のような疑いを容れる余地がある。すなわち、大村鑑定は、「前記のような経過によつて亀の子形血痕が形成されることの可能な前提条件として死体を仰向けの状態からうつ向きにした際鼻腔内に潴溜していた半流動性の血液が畳面上にこぼれ落ち、その血液の上に鼻尖部と上口唇の一部が接着するような位置に顔面が置かれるためには前記のように顔面は右側へ一四・二度、頭部は後方へ七・一度傾けた状態のまま頸部が硬直していることを必要とする。もし頸部に硬直が未だ生じていない状態で顔面をうつ向きにした場合は畳面上にこぼれ落ちた血液の位置と畳面上に伏せられた鼻孔の位置とが合致せずその間にズレを生ずる」という。なるほど、大村鑑定によれば、亀の子形血痕と鼻孔とは全くよく合致してその間にズレのないことが認められるが、それにもかかわらず当時死体に硬直の存在が窺われないことは前記認定のとおりである。このように右鑑定結果は死体硬直の存否という前提事実との間に若干の矛盾があるから、前記亀の子形血痕の成因の点について必ずしも疑いを容れる余地なしとしないのである。しかし、たとえ右鑑定結果に従うとしても、死体が最初仰向きの状態に置かれその間にAB血痕が形成されてから、五分ないし一〇分を経過した後、うつむきの状態で死体発見現場である四畳間の畳面上に置かれ、更に一〇分間以上経過した後再びその場において仰向きの状態にされるというように上下に向きの置きかえられたことが推測されるにとどまり、(右事実に前記死体発見時の状況を併せ考えると、死体が右のようにうつ向きの状態から再び仰向きの状態にされたのは前記のように栄太郎が死体発見時に死体を仰向きにした事実に符合するものと解される。)果してこの間死体が前記のように仰向きの状態からうつ向きにされるまでの間において場所的な移動を伴つたか否かは明らかになし得ない。
(3) 死体発見時ちよ子の寝床にシーツが敷かれていなかつた点について
この点に関し被告人らは、「死体発見時のちよ子の寝床をみると、枕や掛布団の襟にはいずれもカバーがかけてあるにもかかわらず、ただ敷布団にはシーツが敷かれてない。当時は戦後既に一〇年を経過してシーツに事欠く物資欠乏の時代ではない。またちよ子は当時恋人をも有する未だ三三才の年若い女性であり、それに毎月一〇万円にも達する収入があつたのであるから、当時の社会状態や同女の年令、収入、生活態度等に徴すると、同女が当夜シーツを敷かずに寝床に就いたということや、シーツのスペアーを持ち合わせなかつたということは到底考えることができない。結局就寝中のちよ子を寝床の上で絞殺した結果シーツが排尿の浸潤によつて汚れたため内部の者による犯行であることが発覚することを虞れて犯行後これを寝床から取り除いたことを示すものにほかならない。」と主張する。
右主張について検討すると、ちよ子の死体が発見された際、階下六畳間に敷かれてあつた同女の寝具には、枕及び掛布団の襟にいずれもカバーがかけられていたが、敷布団にシーツがなかつたことは、当審第三回公判調書中の証人石塚多作の供述部分石塚検証調書によつて明らかである。
しかし、第一〇回公判調書中の証人小出幸子の供述部分、同人の当公判廷における供述、証人小出いうに対する当裁判所の昭和三九年六月二三日付尋問調書によれば、ちよ子は夜間トラツクが丸正運送店に立寄る都度貨物の積卸がなされるため、同店階下六畳間に泊ることが多かつたが、時には妹綾子と交代していう等家族の住むいう方本宅に泊ることもあつたので、同女の寝具はその双方に夫々置かれており、いずれの場合も日常寝具にシーツを敷くのが習慣になつていたが、丸正運送店に置かれてあつた同女の寝具にはシーツが一枚だけしかなかつたため、これを洗濯して未だ乾かなかつた場合にはシーツを敷かないままで寝た晩もあつたことが認められる。被告人ら所論の前記事情すなわち当時の社会状態やちよ子の年齢、収入、その他生活態度に関する事情は右認定を左右するに足りない。
そして本件発生当日右シーツが洗濯中であつたか否かはついに明らかになし得なかつたから、あるいはシーツが洗濯のため当夜最初から敷かれていなかつたのではないかという疑いがある。この点について弁護人は当時右六畳間の押入内には寝具が二組あつて夫々シーツが敷かれてあつたから、たとえ一枚が洗濯中であつたとしても、他の一枚が用いられた筈であるという。なるほど証人鈴木滋夫の当公判廷における供述及び証人小林さち子に対する当裁判所の尋問調書によれば、同人らが宿泊した当時、同店階下六畳間の押入には寝具が二組収納してあり、小林さち子が同店六畳間にちよ子と一緒に泊つた際二人が用いた寝具には夫々シーツが敷かれてあつたことが認められるけれども、もし当時シーツが二枚あつてこれが二組の寝具に夫々各一枚宛敷いてあつたとすれば、当然検証時には押入内に収納してあつた他の一組の寝具にもシーツがある筈である。ところが石塚検証調書によると、検証時には右六畳間の押入内には敷布団が一枚収納されていたが、シーツは存在しなかつたことが認められるから、所論のようにつねに二枚のシーツが右押入内に置かれていたとは認めがたい。
更に被告人ら所論のように、かりに就寝中のちよ子をシーツのかけられた敷布団の上で絞殺した結果シーツが排尿の浸潤によつて汚れたために犯行の発覚を虞れてこれを取り除いたものとすれば、とくにその浸潤がシーツまでに止まらないかぎり、シーツの下の敷布団の表面にも又当然及ぶ筈であり、むしろ医師鈴木完夫作成の鑑定書に明らかなとおり、ちよ子の膀胱が空虚であつたことに徴すると、所論のように布団上に仰向けに横たえられたまま絞殺された成人の尿失禁による浸潤がシーツだけに止まり敷布団にまで及ばないということは甚だ不可解なことがらで、若しさような状態が生ずるとしても、それは稀有なことであると考えられる。ところが、第六回公判調書中の証人石塚多作の供述部分及び第七回公判調書中の証人山内隆同西山芳衛の各供述部分によれば、同人らによる死体発見現場の前記検証の際敷布団の表面に手を触れて異常の有無を確めあるいはルミノール反応の有無を検査した結果全く異常の認められなかつたことが認められる。してみるとむしろ、当夜最初から右布団にはシーツがかけられていなかつたばかりでなく、ちよ子は寝床の上で所論のような方法で殺害されたのではないことさえも推認できる余地がある。結局ちよ子の寝床に最初からシーツのかけられていたことを認めるに足りる証拠はないから、この点の被告人らの主張はその前提を欠くものということになろう。また右鈴木滋夫の丸正運送店の夜具に関する供述は同人が丸正事件発生後事情が相当変化してから、同人が同店に寝泊りした経験に基ずくものであり、前記小林さち子の供述は事件発生前に同人が同店に出入し二、三度宿泊したときの経験に基づくものであつて、適確に丸正事件発生当時の状況を知悉しての供述でないことを考慮してその信憑性を考えなければならない。そこで、同人らが夜具二組というのは、敷布団と掛け布団何枚宛を一組というのか明瞭を欠くのであるが、前記石塚検証調書によれば、押入の中に残存していた敷布団は一枚というのであるから、若し敷布団二枚一組とすれば(ちよ子の寝床は二枚である。)シーツのないことと併せて尿失禁による浸潤がシーツのみならず敷布団にも及んだので、これを何処かに隠匿し偽装工作として押入れ内の一枚を取り出し、ちよ子の寝床に更に敷いて置いたのでないかとの想像も可能であろう。若しそうだとすると、犯人らはこの工作をちよ子の死体発見に至るまで二、三時間の間に何処でしたのであろうか。他所に持ち出せばその間深夜とはいえ誰かに出会う危険も多分にあるし、又丸正運送店の内外を問わず隠匿したとすれば、その発見の虞れも十分あるであろうし、これを処分したとしても、その痕跡を全く消すことはむづかしいと考えられる。ところが現実に本件捜査段階で、これらの点に関しては証拠上何ものも現われていないことにかんがみると右のような見方はやはり臆測の域を出でないというほかはない。
(4) 死体及びその周辺の偽装手段について。
この点に関する被告人らの主張は、
(a) ちよ子の死体が発見された際その傍らには同女が日頃現金入れに使用していたチヤツク付の鞄(昭和三七年押第八号の二九号)が置かれ、栄太郎夫婦において平素ちよ子が右鞄を入れていたと申し述べている六畳間の洋服ダンスの小抽斗が引き出されたままになつていたから、これらの点をみると、恰も当夜同女は、大一トラツクの自動車運転手らが店先に来たのを貨物の積卸に来たものと誤信して運賃支払のため傍の右洋服ダンスの小抽出をあけこの鞄をとり出して店先に出たところを右運転手らによつて殺害され鞄内の現金などを強奪されたかのようにみえるけれども、次のような各事実に照らすと、前記位置に鞄が置かれ、右洋服ダンスの小抽斗が引き出されているのは、犯人が大一トラツクの自動車運転手であるかのようにみせかけるために犯行後に施した工作であることは明らかである。すなわち、
<1> 夜間大一トラツクの自動車が貨物積卸のため丸正運送店を訪れる場合は運賃の支払をしない場合が多かつたから、ちよ子は大一トラツクの自動車が来る都度直ちに右鞄を持つて起き出したわけではなく、運賃の清算をした結果支払いの必要がある時にあらためて六畳間の寝室に鞄をとりに戻つていたのである。それゆえ貨物の積卸並びに運賃の清算のなされた形跡もないのに同女が鞄をもつて店先に起き出して来たかの如き状況は不自然である。
<2> ちよ子は平素めざとい性質で、夜間就寝中でも、同店前にトラツクが停車すると直ちに店先に起き出していたが、それはトラツクが同店前に停車する際の音によつて目覚めていたのである。ところが、本件発生当時同店前にトラツクの停車した事実はない。かりに鈴木自白に従うとしても当夜一〇五号車は極東商会前に停車したのであつて同店前に停車した事実はない。従つて、当夜ちよ子がトラツクの停車する音で目覚めたということはないし、たとえ、同店出入口の戸を開ける音で目覚めたとしても、大一トラツクの自動車運転手らが来たと考える筈がないから、右鞄をもつて店先へ起き出してくるということはあり得ない。それ故この点からみても、当夜ちよ子が鞄をもつて店先へ起き出してきたかの如き状況は不自然である。
<3> ちよ子は夜間就寝する際鞄を前記の洋服ダンスの小抽斗には入れないで自分の寝床の下に敷いて置く習慣であつたから、ちよ子がこの小抽斗を開ける筈がなく、従つてそれが引き出されたままになつているのは不自然である。
<4> 三枝孝四郎によつて同女の死体が発見された際この鞄は死体の左側に腰部とほぼ平行して畳の上に立てられた状態で置かれていたにもかかわらず、その直後、警察官が現場に到着した時には仰向きにされた同女の左足踵部の下に敷かれて横倒しになり、しかも現金二、九〇〇円在中のハトロン紙封筒がその鞄に接着して置かれてあつたし、また五月一二日午前三時から午前九時五〇分までの間に現場における鞄の置かれた方向が、左右逆にされるなどこの鞄については位置や状態が変更され、また、その際鞄の内容にも偽装の施されたことが窺われる。
(b) ちよ子は夜間大一トラツクの運転手らが貨物積卸のため同店に立寄つた際は、必ず寝間着の上に羽織を着て起き出してゆくのを習慣としていた。しかるに当夜同女の羽織は同女の寝床の傍らに脱ぎ捨てられたままになつていた。従つて、同女が店先へ起き出していつたところを殺害されたというのは不自然であり、この点からも犯行場所が六畳間の寝床の上であることが窺われる。
(c) ちよ子は、夜間六畳間の寝室と店先との間を往来する場合は、その間にある障子戸のうち一番西側の戸を開閉してここを通路としており、一番東側の障子戸をあけて出入したことはない。ところが本件発生当時ちよ子が夜間つねに出入していた西側の戸に接してカーテンが吊られ、また戸の前に人台が置かれていて、同所をちよ子が通らなかつたかのような状況が存在し、しかも栄太郎夫婦は証人として当公判廷においてちよ子は東側の障子戸をあけて出入していたと強弁している。これらの事実に徴すると、犯人は六畳間の寝室でちよ子を殺害した後、西側の障子戸をあけて、ここから同女の死体を搬出したものの、同所が死体搬出場所であることを知られるのを虞れ、恰も同女が東側の障子戸をあけてここから店先へ出たところを外部からの侵入者によつて殺害されたもののように装うため犯行後に西側の障子戸が同女の通路でなかつたかのような状況を作り出したものであることは明らかである。
(d) 死体発見時ちよ子は寝間着を左前に着せられていたことに徴しても、犯行後現場について偽装の施されたことが窺われる。
というのである。
右主張について検討するに、
(a) <1>の点については、証人岡崎慶策の当公判廷における供述によると、当時大一トラツクの各営業所と同会社の荷扱所であつた丸正運送店との間を運送される貨物の運賃は、貨物の運送を引受ける際に送り主から支払いを受ける元払いと、貨物が届け先に届けられた際受取人から支払いを受ける先払いとがあつて、大一トラツクと荷扱所である丸正運送店との間では依頼人から受領した運賃のうち大一トラツクが八〇パーセントを取得し、残額二〇パーセントを丸正運送店が取得する取りきめがされていて、しかも同店に届けられた貨物が先払いの場合には、運賃の八〇パーセント相当額を丸正運送店が大一トラツクに立替払いし、またそれが元払いであつた場合には運賃の二〇パーセント相当額を丸正運送店が大一トラツクから支払を受けることとなつていたため、つねに同店において貨物の積卸がなされる都度ちよ子は積荷と卸荷の夫々について右割合にもとずく運賃の計算をしたうえ、丸正運送店の側が支払勘定になる場合にはその場で運転手或いは助手に対して運賃の支払いを済ませ、その反対に丸正運送店の側が受取勘定になる場合にはその場で支払いを受けず後日纒めて大一トラツクから一括支払いを受けていたことが認められる。このようにちよ子がトラツクの運転手らに対して貨物運賃の支払をする必要があるか否かは右のような清算の結果始めて判るのであつて、所論のように夜間においては特に同女が現金の支払をすることが尠かつたものということはできない。そして安藤秀芳、渡辺勝市、原田和一、川口源吾、鈴木松尾、岩崎由郎の司法巡査に対する各供述調書によれば、大一トラツクの自動車が夜間貨物積卸のため丸正運送店に立寄る際、ちよ子が六畳間の寝床から店先に起き出してくる時は、最初からこの鞄をもつてくるのを常としていたことが窺われる。なおこの点について証人小林さち子は、当裁判所の尋問に対し、ちよ子は最初から鞄をもつて店先へ起き出してゆく時よりも、一旦店先へ出て運賃の清算をして支払の必要のある時鞄をとりに引返した時の方が多かつたと供述しているけれども、右供述は右認定事実に照らして措信しがたく、他に右主張事実を認定するに足りる証拠はない。それ故当夜貨物積卸のなされた形跡がなかつたからといつて、同女が鞄を持つて店先へ出る筈がなくそれが不自然であるということは速断し難い。
<2> なるほど、本件発生時に丸正運送店前路上に大一トラツクの自動車が貨物積卸のため停車したことを窺わしめる証拠はないけれども、たとえトラツクの停車した事実がなかつたとしても、同女が犯人によつて呼び起されるということもありうることであるし、また当時つねに施錠をしていなかつた同店出入口のガラス戸は、動きが悪く開閉の都度かなり高い物音がする状態にあつたことは、証人小出博、同岡崎慶作の当公判廷における各供述、石塚検証調書によつて明らかであるから、ちよ子がこのガラス戸の開閉する音によつて目覚めたのではないかと疑う余地がある。そして既に眠に落ちていた同女としてはこれら同女を呼び起す声或いは出入口を開閉する物音によつて目覚めた場合、同店前にトラツクが停車しなかつたことに当然気づくものとは限らないし、かりに同女がこの点に若干の不審を感じていたとしても、当時同店には夜間四・五台から多い時は八台にも及ぶ大一トラツクの自動車が貨物積卸のため立寄り、深夜にも運転手らが出入りしていたことが窺われるから、同女がトラツクが来たと考えて例によつて鞄をもつて店先に起き出したということも十分考えられることである。従つて、自動車が同店前に停車した事実がないからといつて、ちよ子が鞄をもつて起き出したことが不自然であるとはいえない。
<3> なるほど、証人小林さち子に対する当裁判所の尋問調書によると、同女は日頃ちよ子と親しくし、本件発生当時も屡々丸正運送店に同女を訪ねて遊びに行き、六畳間にちよ子と共に泊つたことも一、二回あつたが、その際同女は鞄を自分の寝床の下に敷いて就寝したことが認められる。しかし一方小出綾子、小出博の司法巡査に対する同年五月一二日付各供述調書にはいずれも、ちよ子は、平素就寝中鞄を六畳間の洋服ダンスの小抽斗に入れていた旨の供述記載が存在するのであつて、小林さち子が前記のようにちよ子が鞄を自分の寝床の下に入れて就寝したのを目撃したとしても、それは僅か一・二回ちよ子と一緒に泊つた時のことに過ぎないのであるから、つねにちよ子が鞄を寝床の下に入れて寝たものと推定することはできない。むしろ右に掲げた証拠を総合すれば、ちよ子は夜間就寝時に鞄を稀には寝床の下に敷いて寝ることもあつたが、多くは洋服ダンスの小抽斗に入れて寝たものと推認するのが相当である。この点に関し弁護人は、「この洋服ダンスは栄太郎夫婦の所有に属するものであつて、同人らの持物だけが収納され、ちよ子の持物はなにひとつ入つていなかつたのである。それに一般に女性は自分のタンスに他人が触れることを極度に嫌うものであつて、他人の品物を自分のタンスに入れられるということは女性にとつて堪えがたい筈である。従つて、ちよ子が右洋服ダンスの小抽斗を使用していたということは経験則に反して不自然である。また栄太郎夫婦も夜間ちよ子が鞄を小抽斗に入れる場面を目撃した事実はない。それ故、同女が鞄を洋服ダンスの小抽斗に入れていたという前記各供述は措信しがたい」という。
右洋服ダンスが栄太郎夫婦の所有に属し、本件発生当時それに収納されていた物品の中にちよ子の持物がなかつたことは、証人小出幸子の当公判廷における供述によつて明らかである。しかし、幸子はちよ子の兄嫁であり、しかも、僅か洋服ダンスの小抽斗一個の使用に関する事柄であるから、所論の経験則が直ちにこの場合に適用あるものとは認めがたく、その他所論の事情は、前記各供述の信憑性を左右するに足りない。
また、検事大島四郎作成の検証調書によると立会人の栄太郎夫婦をして洋服ダンスの小抽斗が引き出されていた状況を指示させたところ、全長二七糎の小抽斗が抜け落ちるばかりに引き出された状況を指示したことが認められる。そして被告人らは僅か長さ八寸程度の鞄を取り出すのに一尺以上も洋服ダンスの小抽斗を抽出したというのは三三歳の女性の所作としては不自然であり、この点からも小抽斗が引き出されていたというのは偽装手段にほかならないというが、通常若い女性は抽斗の中から品物を取り出す際その品物の長さよりも短く抽斗を引き出すものとすべき経験則は存在せず、従つて前記検証時の栄太郎らの指示があながち不自然であると断定することはできない。それゆえ以上の事柄から洋服ダンスの小抽斗が引き出されたままになつていたことが事後になされた偽装手段であるとは認めがたい。
<4> またちよ子の死体が三枝孝四郎によつて発見されてから約十数分後三島署員が現場に到着するまでの間、所論のように鞄の位置が若干移動し、置かれた状態も変化したことは、三枝孝四郎の司法巡査西山芳衛に対する昭和三〇年六月一八日付供述調書並びに検事大島四郎作成の検証調書によつて明らかであるし、また所論のように三島署員が現場に到着して死体の写真撮影が始まつた後検証の行われている間に鞄の置かれた向きが左右逆に置きかえられたことも司法警察員撮影の写真二葉(昭和三七年押第八号の40の1の9並びに同号の40の2の9)を対比して明らかである。
そして前記写真二葉によれば、現金二、九〇〇円在中の封筒が鞄に巻きついた形で死体の左足の下に押さえられていることが認められるが、死体発見時に栄太郎がうつ向きになつていた死体を仰向きにしたことは前記認定のとおりであり、また鞄が死体の傍らから左足下に移動されたのも略この時期の前後であると推認されることを考え合わせると、栄太郎が死体を仰向けにする直前に死体の傍らにあつた鞄をこの封筒と一緒に死体の足許の方に移動させたためその直後前記のように仰向きにされた死体の左足の下に敷かれた形になつたことが窺われる。しかし、栄太郎がどのような意図のもとに鞄をこのように動かしたのかは明らかではない。また鞄は最初三枝孝四郎が発見した時畳の上に立つた状態で置かれてあつたのであるが、しかし鞄の寸法は長さ約二六糎、巾約一七糎、厚さ約六糎でとくに立てようとして静かに置かなければ必ず倒れるものとも思われないから、鞄が立つたままの状態で置かれてあつたということ自体は、あながち、不審とするにあたらない。それ故、栄太郎が偽装の目的でこのように鞄を移動させたものとすれば果してどのような意図の下に偽装を施そうとしたのか、この偽装が同人に如何なる利益をもたらすのか判断に苦しまざるを得ない。
更に、当審第三回乃至第六回公判調書中の証人石塚多作の各供述部分、第六回及び第七回公判調書中の証人山内隆の各供述部分、第七回公判調書中の証人西山芳衛の供述部分によると、所論指摘の死体写真(同号の四一の八)は、同日午前八時二〇分から、午前九時五〇分頃までの間に撮影されたものであること、一方の死体写真(同号の四一の一八)は同日午前三時頃から午前九時五〇分頃までの間に撮影されたものであることが認められるが、しかしそのいずれが先に撮影されたものであるか明らかではない。そして前記証拠のほか当審第九回公判調書中の証人小出栄太郎の供述部分、第一〇回公判調書中の証人小出幸子の供述部分、証人小出博の当公判廷における供述、小出綾子の司法巡査並びに司法警察員に対する各供述調書によると、三島署員は死体発見直後現場に急行し、直ちに死体写真の撮影を開始すると共に同日未明栄太郎ら三名を三島署に参考人として同行して取調を始める一方、死体の傍らに置かれてあつた右鞄の中の現金が紛失しているか否かを確かめるため綾子に指示して鞄の中を調査させたことが窺われる。従つて鞄内の調査と死体写真の撮影とが併行して行われたことが推測される。してみると、右死体写真二葉の撮影される中間の時期に鞄の内容を調査するためこれを動かし、調査後再び死体写真を撮影するため元の位置に戻した際誤つてその向きを左右置き間違えたのではないかという疑いもないではない。
また前記のように鞄の向きが左右逆に置きかえられたのも果して誰によつてどのような経緯からなされたのか明らかではない。これが所論のように偽装工作としてなされたものであるとしても、一体何故三島署員の写真撮影の開始された後に偽装手段を施したのか、またどのような意図があつたのか、これまた理解に苦しまざるを得ない。
それ故単に栄太郎が鞄や封筒を移動させたこと、あるいは鞄の向きが置きかえられたことから偽装手段が加えられたものと推断する被告人らの主張はそれ自体不合理であつて到底採用することはできない。
(b) ちよ子が当時着ていた羽織が六畳間の寝床の傍らに脱ぎ捨てられたままになつていたことは、石塚検証調書によつて明らかである。そして当時丸正運送店に出入していた大一トラツクの従業員である渡辺勝市、鈴木松尾及び杉山忠は司法巡査の取調ないしは当裁判所の尋問に対し、ちよ子は夜間トラツクが貨物積卸のため立寄つた際、寝間着のうえに羽織をかけて店先へ起き出してきた旨供述しているけれども、しかしその反面右渡辺勝市らと同様当時同店に出入していた大一トラツクの従業員である安藤秀芳、高橋忠夫、原田和一は、司法巡査の取調に対しちよ子は夜間も寝間着のまま店先へ起き出して来ていた旨供述していることに徴すると、同女が当時夜間はつねに羽織を用いていたと断定することはできない。証人小林さち子に対する当裁判所の尋問調書によれば、ちよ子は、夏は羽織を用いなかつたことが認められるから、同女が当時夜間トラツクが立寄る際寝間着の上に羽織をかけて起き出したのは女性としてのたしなみばかりではなく、やはり防寒のためでもあつたと推認することがより合理的である。そして三島測候所の気象に関する回答書によれば、事件発生当夜はとくに気温が高く、一夜を通じて摂氏二一度余にも達していたことが認められるから、当夜ちよ子は気温が高かつたため羽織をかけずに起き出したのではないかと疑う余地がある。それ故当夜同女が羽織をまとつていなかつたという点は直ちに同女の死体が店先に搬出されたことを窺わしめる事由になるとは断言できない。
(c) 石塚検証調書及び当裁判所の検証調書によると、ちよ子の寝床が敷いてある六畳間と栄太郎の仕事場のある四畳間との間の敷居には、障子が三本嵌めてありこの障子の西側二本に沿つて四畳間の側に白いカーテンが吊つてあること、西側の障子の南側に洋服をかけた人台が一個置いてあること、六畳間から四畳間へ出て運送部の方へ行くには東側の障子戸をあけるとその正面敷居から数十糎離れた南側に長さ一・八六米、巾〇・九米の仕立台が置かれているため、この仕立台と敷居との間を通つて運送部の方へ行くことになること、等が認められる。
栄太郎と幸子はいずれも当審の証人として、自分達夫婦はもとより、ちよ子も平素六畳間と店先四畳間との間を出入りする場合には、東側の障子戸をあけて出入りしていたと供述しているが、証人小林さち子に対する当裁判所の尋問調書、高橋忠夫並びに高橋幸蔵の司法巡査に対する各供述調書によると、栄太郎夫婦は平素店先の四畳間と六畳間を往復するときは東側の障子戸をあけて出入していたが、ちよ子の場合はどの障子戸を開けて出入りするか必ずしも一定せず急ぐ場合など西側の障子戸をあけ、これに沿つて吊つてあるカーテンをくぐり抜けて出入していたこともあつたことが窺われる。それ故栄太郎夫婦の前記供述は若干実情と異るもののようにも思われるが、栄太郎夫婦はつねに東側を通つて出入りしたのであるし、ちよ子もまた東側を通つて出入りしたこともあつたのであるから右供述が所論のように事実を歪曲した強弁ということはできない。また前記認定のようにちよ子は、西側の障子戸をあけて出入りする時はカーテンをくぐり抜けて出入りしていたのであるから、西側の障子戸の部分までカーテンがひいてあつたことだけをもつて事後になした偽装であるということはできない。また人台が西側の障子戸の前に置いてあつても、西側の部分を通行することが不可能となるほどの障碍でないことは、死体現場の写真(同号の四一の二、一八、二〇)によつて明らかであるから、同所が通路とされていなかつたことを装うために人台をことさら同所に置いたものとは認めがたい。また所論のようにその障子戸が敷居からはずれているとしても、その原因は明らかではなく、直ちにそれが所論のように死体搬出時に犯人があわてたためであることを認めるべき根拠はない。結局人台の置かれた位置やカーテンの吊られた状況が客観的事実に反し不自然であるという主張は臆測の域を出てないものというのほかはない。
(d) また死体が発見された際、死体が寝間着を左前に纒つていたことは、前記死体写真によつて明らかである。もとより、ちよ子が生前寝間着を左前に着ていたとは到底考えられないばかりでなく、石塚検証調書によれば、寝間着を纒うのに使われた腰紐も解き外されていることが認められるから、かかる事情に徴すると、犯行時犯人によつてかかる死体の身繕いのなされたことが窺われる。しかしこの事実だけからしてこれが偽装の意図をもつてなされたものと推認することは根拠の薄弱な見解である。それ故この点は右主張に副う事由とはならない。
以上死体の発見された現場には偽装手段を講じた形跡があるという各主張について順次検討を加えた結果、これを窺わしめる的確な事実は発見することができないばかりでなく、その他偽装工作の存在を認め得る証拠は存在しないものというのほかはない。
(三) 犯人の人数について
この点に関する被告人らの主張は、「鈴木自白によれば、李得賢と鈴木一男の二人だけで前記強盗殺人事件を実行したという。しかし、右事件の犯行の手段、態様に徴すると、到底二人だけで実行できるものではなく、最少限三人以上存在し、これが共同して実行することを必要とする。蓋し、被害者は細紐で頸部を絞扼される以前に口部を手拭で縛られているが、手拭の両端は蝶結びに結えられているから、まず手拭で口部を縛るだけで一人を要したであろうし、その際頭部を押えつけて動かないようにしておかなければ、手拭の両端を蝶結びに結えることは覚束ないから、そのために更に一人を必要とし、また同時に被害者の必死の抵抗を抑圧するためには同女の残る左手と下肢をも押えつけなければならないから、いままた他の一人の存在を必要とする。更にこれに引続いて細紐で被害者の頸部をしめるについても、さきに手拭で口部を縛つたことは、決定的な抵抗抑圧の役割を果さないから、依然細紐でしめ、かつ、これを結える者のほか、頭部と上肢下肢を夫々押さえる者各一人合計三人の存在は必要である。従つて李得賢ら両名だけでは犯行は実行できないから犯人の数からも同人らが犯人でないことは明らかである。」というのである。
なるほど大村鑑定人作成の鑑定書には、「鈴木完夫作成の鑑定書ならびに鑑定に供された資料写真に拠ると、千代子はまず手拭で口部をサルグツワ様に縛られ、項部左側において結節が作られた。その結び目は真結びではなく、「片蝶」である。次に頸囲に紐を一回巻きつけられ前頸部正中やや右よりに一回結んで絞められたがその絞締力は相当に強く、所謂喰い入るように作用している。そして損傷ことにちよ子が試みた抵抗の痕跡としては僅かに、細紐をとり除こうとした際自らの左手指で生ぜしめたと思われる、索溝左側頸部にある軽い表皮剥脱と、左上膊後面ほぼ中央の握傷と認められる大豆大皮下溢血とが存在するのみである。
そして右手拭の結び目は項部左側でしつかりと「片蝶」(引とき)に結ばれ、その結び目は手拭の長さ一杯に辛うじてそのはしが挾まれた程度であつて、結び目から遊離端まで余裕がない。余程落付いて結ばない限りできない形である。また右絞頸時には右上肢のない被害者であつても死力をつくした「あがき」があつたに相違ないが、それも特別の痕跡として死体に残される程の動きができなかつたものと思われる。ただ僅かに使いうるそれも上膊を握られて動きを制限された(前記皮下溢血の存在することからかく認められる)左手指を用いて左側頸部になされたとみられる防禦行為の表皮剥脱を残しているに過ぎない。かくて考えられることは、犯行当時、被害者への抵抗の規制が強くなされたこと、言いかえれば、加害は複数の人によつてなされたということである。更にその人数については、手拭の結び目が前記のとおりであるから、口部を縛るためには両手を使わなければならない。また被害者の抵抗のため身体の動きがあつては前記の状態に結びあげることはできない。また発声も抑止しなければならないから、犯人の一人が被害者の口部を手拭で縛り、更に次いで頸部を細紐で絞扼する際同時に他の一人が頭部をもつて固定し声を出さないように働くことが必要である。
然もなお、ちよ子の左上肢なり(死体所見上左上膊を掴んで動きをとめたことは明白)両下肢の自由を奪うこともなされなければならない。そのため更にもう一人存在するとみることが死体所見を満足さすために自然であると思料される」旨の記載がある。
たしかに、犯人の一人が被害者の口部を手拭で縛つた際、同時に他の一人によつて頭部の動きが抑止され、また発声も妨げられていたであろうことは右死体所見から窺うことができるけれども、しかし、その際同時に第三人目の者によつて同女の左上肢と両下肢の動きが制せられていたか否か、すなわち、当時被害者は左上肢と両下肢に至るまでなんらの動きもできないほど完全に抵抗も抑圧されていたか否かは必ずしも右死体所見からは明らかでない。それ故、大村鑑定人も当公判廷において証人として右鑑定意見を補足し「鑑定書に記載した『犯人の人数が複数であり、三人以上とみるのが自然である』という趣旨は三人存在しないかぎり実行不可能という趣旨ではなく、被害者の左上肢と両下肢の抵抗のあつたことを意に介しなかつたとすれば、必ずしも犯人が三人存在する必要はなく、また抵抗抑圧の方法の如何により、或いは犯行に着手した当初から被害者を人事不省に陥らしめるなど抵抗不能の状態においた場合もまた同様である。唯、被害者の抵抗(発声を含む)をほぼ完全に抑圧した状態のもとで実行可能な犯人の人数を考えると三人以上と考えることが自然である。」旨を述べている。従つて右以外の何らかの証拠によつて手拭で被害者の口部を縛り、更に細紐でしめる際、他の犯人の一人によつて手足の動きが制せられていたことが認められなければ右大村鑑定の結果をもつて直ちに犯人が三人以上存在したものと論断することはできない。そして被告人らは、右大村鑑定の結果に、加えて、被害者が終始声を立てなかつたこと、手足をバタバタさせる音響もなかつたこと、現場が乱れていないこと等を考慮に加えると犯人が三人存在したことは疑いを入れる余地がないという。
なるほど、当夜同店二階に寝ていた栄太郎夫婦がかかる物音を聞かなかつた旨述べていることは所論のとおりであり、その他所論のようなちよ子の叫び声、抵抗の物音を聞いたという者は認められないけれども、しかし果して現実に同女が所論のような抵抗もしなかつたかどうかはこれを認めるに足りる証拠がない。なおかりに、ちよ子が所論のような状態であつたとしても、それは必ずしも犯人が手足の動きを制し、その発声を強圧していたことを意味するものではない。不意をつかれ、極度の警愕に陥つた殊に婦女子においては、前後を忘却し、虚脱状態になり、或は救いを求めるために大声を発するとか有効な抵抗を試みる等のことができない場合も往々にして存することは当裁判所に顕著な事例である。
従つて、右事件の実行には犯人が三人以上必要であり、二人ではその遂行は不可能であるという右主張も、果して犯行の際、手足の動きも頭部と同時に他の一人によつて抑圧されていたという前提事実が明らかでないから、これを断定的に肯定することはできず、所論は単に一個の可能性の存在を推論するに止まるものといわなければならない。
(四) 確定判決が採用した証拠中核心となる供述について
後記のように三島市つばめタクシーの運転手酒井良明と静岡運輸株式会社のトラツク運転手の大橋忠夫の両名は、丸正事件の捜査段階、すなわち、警察、検察官の取調から、第一、二審の審理を通じて、いずれも昭和三〇年五月一二日午前一時一五分ないし一時二五分頃までの間において丸正運送店の北西約四〇米余の地点にある極東商会前を自動車を運転して通つた際、同所に「大一」のトラツクが一台停車していた旨を供述している。もしかりに、右トラツクが右両名のいうとおり「大一」のトラツクであつたとすると、右時刻が死体発見前であり、しかも丸正運送店が沼津、東京間の走行順路から迂回すべき地点にあるため、該トラツクは、当然同店に貨物積卸のため立寄つたものと思われるにもかゝわらず、同店から四〇米余離れた極東商会前に停車したことを考えると、そのトラツクの行動については重大な疑惑を抱かざるを得ない。そして「大一」の全トラツクのうち、当時同所に停車し得る可能性のあつたのは李得賢ら両名の乗る一〇五号車を措いては他になかつたことが確定事件記録に現われた証拠によつて推認される。李得賢ら両名は、もとより当夜同所に立寄つた事実を否認し、かつ、他に停車した者のあることを知らないと供述しているから当夜同人らが同所に立寄つたことの合理的理由を説明できないということになる。従つて該トラツクが「大一」のトラツクであつたという前提に立つと、李得賢ら両名の当夜の行動について右の疑惑は一層強まらざるを得ない。
また鈴木一男は同年五月三〇日別件窃盗事件の被疑者として三島署に逮捕され同月三一日から翌六月二一日までの間において司法警察員並びに検察官に対して確定事件の犯行を自白した。その要旨は、「同年五月一二日午前一時二、三分頃李得賢と共に一〇五号車に乗組み東京へ向けて沼津本社を出発した。ところが出発して間もなく同人から『金が要るから途中三島の丸正運送店へ寄つて女を殺して金を奪う。手をかしてくれ』と言われた。同人はかねてから子供が進学するため金銭の調達に苦慮している様子であつた。自分も借金が三、〇〇〇円余り請求を受けていた分もあつたのでこれに加担することを承諾した。李得賢は一〇五号車を途中三島大社前から迂回して極東商会前に停車させた。沼津本社から極東商会前まで一〇分を要しない程であるから、時刻は一時一二、三分頃と思う。李得賢はトラツクから降りて丸正運送店に向い、自分もその後に従つた。同人が先に同店内に入り自分が洋服部の土間まで行つた時はちよ子が起き出して来ていた。李得賢は洋服部の土間に立つたまゝちよ子に接近し、四畳間の上り口に立つていた同女の口を左手で塞ぎ、右手で左肩のあたりをつかんで引き寄せて土間に降ろし、その背後にまわつて同女を土間に立たせたまゝ、左手で同女の口を塞ぎ、右腕でその頸部を絞扼した。自分は李得賢の合図で同人の腰のポケツトから手拭を取り出し同女の前にまわりその手拭で同女の口部を縛つた。更に同女は手足をもがいて抵抗したゝめ、李得賢に指示されて同女の腰紐を解いて両脚を縛つた。その頃これまで動いていた同女の脚が動かなくなり、同女が息をひき取つたように思い、こわくなつて一目散に同店の外へ逃出した。一〇五号車に戻つて暫くすると李得賢が戻つてきた。直ちに同所から東京へ向つて出発し、途中小田原附近で同人から強奪金の分前として三千円を貰つた」。というのである。
もし右鈴木自白が措信しうるものとすれば、前出の補強証拠たるべきものと相まつて李得賢ら両名を犯人と認定するに充分である。
しかし、反面もし所論のとおり極東商会前に停車していたトラツクが「大一」のトラツクでなかつたとすれば、李得賢らに向けられた前記の疑惑もその前提を失つて解消するし、鈴木自白の信憑性に影響を与え、李得賢ら両名が犯人であるという疑いは全く否定されないまでも、その証明が十分でないことになる。
そこで右酒井、大橋両名の前記供述と鈴木自白の信憑性が検討されなければならない。
(1) 丸正事件発生当夜極東商会前路上に停車していた「大一」のトラツクを目撃した旨の酒井良明、大橋忠夫両名の各供述の信憑性について。
この点に関する被告人らの主張は、「酒井、大橋両名は、事件発生当夜極東商会前路上に「大一」のトラツクが停車しているのを目撃したと供述しているが、両名の供述の中、目撃したトラツクの積荷の有無、目撃した時刻に関する部分は警察、検察官の各取調から確定事件の審理を通じてつねに変転して定まりなく、また前後矛盾がある。
とくに警察が酒井から右事実の聞込をするに至つた経緯に関する同人の供述は、確定事件第二審における供述と当審における供述との間に矛盾があり、その内容も不自然であつて、酒井が「大一」のトラツクを目撃した旨の供述は警察官の誘導に迎合してなされたものであることが窺われる。これらの事情に徴すると、右両名の供述は措信しがたいものである。」というのである。
(a) そこで先ず警察が酒井から右事実の聞込を得るに至つた端緒について検討するに、なるほど確定事件第二審の証人酒井良明に対する昭和三三年四月一一日付並びに同年一〇月一四日付各証人尋問調書には、「昭和三〇年五月一二日勤務先であるつばめタクシー株式会社三島営業所にいた時、友人の『渡辺源之助』からの電話で小出ちよ子が殺害されたことを知つたが、その際自分が『そういえば昨夜おかしなところに車が停つていた』といつたのを傍らに居合わせた三島署交通係長芹沢清平が聞き、同人の取調を受けるようになつた」旨の供述記載があるのに対し、同人は当公判廷において証人として、「右電話の相手方は『渡辺武』である。また芹沢係長が電話での右会話を聞知するに至つた経緯は、芹沢係長が電話の傍らに居合わせてこれを直接聞知したのではなく、傍らにいた同営業所の配車係関光男がこれを聞いて営業所長に話し、更に同人がこれを芹沢係長に話した結果同係長の知るところとなつたものである」旨供述している。従つて右の各供述を対比すると右電話の相手方の氏名及び電話を直接聞いた者の二点において供述は矛盾しているように思われる。
しかし、同人の当公判廷における右供述の趣旨を仔細に検討してみると、同人のいう「渡辺源之助」と「渡辺武」とは異る別個の人物ではなく、結局同一人物を指していることが窺われる。
また芹沢係長が右電話での会話を聞知するに至つた経緯に関する供述は、むしろ先の尋問では酒井の右電話での会話が芹沢係長の耳に入るまでの経過について省略的に供述したのを、当審において補充し、正確に供述した結果所論指摘の差異が現われたもので後の供述がより正確で措信しうるものと認められる。従つて右電話の相手方が誰であるかという点はとも角として、要するに、酒井が勤務先の営業所にいた際他からかゝつてきた電話によつて友人である博の姉のちよ子が殺害されたことを知り「そういえばゆうべおかしなところに車が停つていた」と言つた言葉がきつかけとなり、これが傍らにいた関光男から営業所長を通じて芹沢係長に伝えられたことが認定できるのであつて、警察が聞込の端緒を得た経過については所論のように作為の施された不自然な点は窺われない。
(b) 次に、酒井、大橋両名が極東商会前に停車するトラツクを目撃したという時刻の点について検討するに、なるほど、先ず酒井良明については、同人の司法警察員に対する昭和三〇年五月一二日付供述調書には同日「午前一時一五、六分頃」同人の検察官に対する同年六月一八日付供述調書には「午前一時二〇分頃」である旨の各供述記載があり、更に第一審第五回公判調書中の同人の供述部分並びに第二審の同人に対する昭和三三年一〇月一四日付証人尋問調書にはいずれも「午前一時二〇分ないし二五分頃までの間」である旨の供述記載が存在する。また大橋忠夫についても、同人の司法警察員に対する同年五月一八日付供述調書には、「午前一時一〇分ないし、一五分頃までの間」、同人の検察官に対する同年七月一三日付供述調書には「午前一時一〇分ないし、二〇分頃までの間」である旨の各供述記載があり、同人の第一審第五回公判調書中の同人の供述部分には「正確な時刻の記憶がないが検察官に対する時刻の供述が正確である」旨の供述記載がある。
この両名の各供述記載を夫々前後比較してみると、両名共最初警察に対して述べた右時刻の点に関する供述は、その後の取調に従つて次第に遅くなり、後に行われた検察官に対する供述との間にいずれも五分前後の差異があり、酒井については第一回公判における証言との間に五分ないし一〇分間の差異のあることが認められる。しかし、右両名が最初警察に対してした各供述中時刻に関する供述の要旨をみると、先ず酒井については、同人は昭和三〇年五月一二日午前一時一〇分客の求めに応じてタクシーを運転して三島市広小路所在のつばめタクシー営業所を出発し、一、二分後にカフエー「つばさ」に赴き、同所で乗客を乗せるため三、四分待つてから同市内の大場方面へ向つたが、その途中右「つばさ」から数百米の地点にある極東商会前を通つたというのであり、一方大橋については、同人は静岡運輸株式会社所属のトラツクを運転して東京から静岡市の本社へ向う途中同日午前一時頃三島市二日町一、三七〇番地所在の望月運送店に立寄り同所でトラツクから荷物を卸すため約一〇分ないし一五分を費してから同所を出発し、沼津市へ向う途中極東商会前を通つたというのである。それ故両名の時刻に関する認識は、酒井の場合はつばめタクシー営業所を出発した時刻の記憶を、大橋の場合は右望月運送店に到着した時刻の記憶を夫々起点とし、その後極東商会前に至るまでに費した時間の記憶に基ずいたもので、もともと正確な時刻の記憶によるものではないから、この間の所要時間に関する記憶に数分程度の誤差のあることは敢えて異とするに足りない。それに右記憶の根底をなす右の事実関係についての供述には両名共前後の矛盾や変化はないのであるから、捜査段階において時刻に関する供述が数分前後変化したからといつて直ちに取調官の誘導に迎合してなされた記憶に基ずかない供述であるということはできないし、他にそれが取調官の誘導によるのであることを肯認させるに足りる証拠はない。
(c) 更に積荷の点に関する供述について検討すると、先づ酒井については、同人の司法警察員に対する昭和三〇年五月一二日付供述調書には、目撃したトラツクについて、「荷物は積んでいないようだつた」という旨の供述記載があるが、検察官に対する同年六月一八日付供述調書には、「右トラツクに幌がかけてあつたかどうかは気がつかなかつたが積荷は四、五屯位と思つた」という右司法警察員調書とは全く異つた供述記載があり、更に丸正事件第一審第五回公判調書中の同人の供述部分には「右トラツクは幌をかけ、五、六屯の荷を積んでいた」旨の供述記載があり、第二審における証人尋問調書には「右トラツクのタイヤと荷台の間隔が開いていたのをみて荷物が積んでないものと思つたのであり、積荷の有無を確認したわけではない」という趣旨の供述記載がある。所論のように酒井の積荷の点に関する供述が捜査の段階から右事件の審理の過程を通じて変転したことは右供述記載から明らかであるが、その経緯については右各証拠と証人酒井良明の当公判廷における供述によると次の事情が認められる。すなわち、酒井は、同年五月一二日同人の自宅を訪れた芹沢係長から極東商会前路上に停車していたトラツクを目撃した状況について、問われるまゝに答えているうち、同係長から積荷の有無の点をも尋ねられた。しかし酒井は積荷については明確な記憶がなかつたため、一旦は「判らない」といつて確答を避けたが、更に同係長から「直観でいいから言つてほしい」旨重ねて供述を求められたため不明確な記憶のまゝ「積んでいないようであつた」旨答えた。その結果右供述調書に前記の記載がなされた。ところがその後酒井は、同年六月一八日参考人として検事大島四郎の取調を受けるため三島署に出頭したが、その際同署の刑事から「実はあのトラツクには積荷があつたのだ」と聞かされ、また当時友人の小出博からも同様右トラツクに積荷があつたということを聞かされていたゝめ、同日右検事の取調に際しさきの供述を飜して、「右トラツクに幌がかけてあつたかどうか気がつかなかつたが、積荷の量は四、五屯位と思つた」旨を述べ、更に第一審公判においても証人として略これと同趣旨の前記供述をするに至つた。右認定事実から明らかなように、酒井の積荷の点に関する供述変転の事情は、最初不明確な記憶に基ずいて供述したけれども、後日右供述が客観的事実と一致しないことを知つて、後の取調において単なる臆測に基ずいて右の供述を飜したものであると認められるから、同人の積荷に関する右各供述はいずれも措信しがたいものといわなければならない。また大橋についても、同人の司法警察員に対する同年五月一八日付供述調書には右トラツクには「シートがかぶせてあり、後ろの垂れは上げてあつて、荷物を積んでいなかつたことは間違いないと思う」旨の供述記載があるにもかゝわらず、同人の検察官に対する同年七月一三日付供述調書には「トラツクに積荷があつたかどうかは判らない。幌がかゝつていたかどうかの点も判らない。警察でこれと異つた供述をしたのは積荷があつたかどうかと聞かれたので前記のように答えたゞけのことである」という供述記載があり、更に第一審第五回公判調書中の同人の供述部分には、「満載ではないが荷物を積んでいた」と述べ後には「私の本当の気持としては荷物も幌も、あつたかどうかはつきり判らなかつた」という供述記載がある。
大橋についても積荷の点について供述が変転したことは右各供述から明らかであるが、それがどのような原因に基ずくのかは同人がその後死亡したゝめ明らかではない。しかしその変転した状況から推すと、酒井の場合と略同様の経緯によるものであることが窺われるのであつて、これまた措信しがたいものといわなければならない。
しかし、右両名の供述の一部に前記のように明確な記憶に基ずかず、他から聞知したところから臆測して供述した部分があつて、それが措信できないからといつて直ちにその余の供述がすべて措信できないわけではない。右に掲げた各証拠によれば、極東商会前路上にトラツクが一台北向きに停車していたことと、それが「大一」のトラツクであつたということについて酒井、大橋両名の供述は警察以来一貫して変るところがないのである。とくに酒井については、同人が証人として当公判廷において、「かつて自分は約八ヶ月間に亘り大一トラツクに運転手として勤務した経歴があつて、同社の運転手のなかには知合の者が多かつたことから、当夜同所に停車中の大一トラツクの側を通過した際も同車の運転手が誰か自分の知合いの者であらうかと思つて運転室をみたが車内の電灯は消えていて誰もいなかつた旨を供述していることに徴すると、同人が右トラツクの傍らを通過した時は同車に対して単に停車中のトラツクがあるという漠然たる意識をもつて目撃したのではなく、車内に自分の知合いの運転手がいるだろうかという関心をもつてその運転席を注視したことが窺われるから、同人が少くとも右停車トラツクが「大一」のトラツクであると認識していたことには疑いを容れる余地がない。そして証人酒井良明の当公判廷における供述・第一審第五回公判調書中の証人大橋忠夫の供述部分によれば「大一」のトラツクは車体に塗られた模様や色彩から一見してそれと見分けができるほど明瞭な特徴のあつたことが認められるばかりでなく、当時全く別個に夫々右極東商会前を通つた酒井、大橋の二人がいずれもそれが「大一」のトラツクであつた旨供述していることに徴すると、両名のこの点の認識が見間違いによるものとは認めがたい。
(d) また被告人らは、「当夜酒井、大橋両名が目撃した「大一」のトラツクがもし李得賢ら両名の乗組む一〇五号車であり、またそれが鈴木自白にいうように同日午前一時過頃大一トラツク沼津本社を出発し途中三島大社前から三島市二日町一、三七〇番地所在の望月運送店前を迂回して極東商会前に至つたものであるとすれば、大橋ら四名の自動車運転手らが同年五月一二日午前一時から一時一五分頃までの間右望月運送店前路上において貨物の積卸に従事している間に当然一〇五号車は同店前路上を通つた筈であるが、かゝる事実は存在しない。従つて、このことからみれば酒井、大橋両名が極東商会前路上で目撃したのは少くとも李得賢ら両名の乗る一〇五号車でなかつたことが明らかである」という。
なるほど証人大村平八郎、同山崎忠一郎に対する当裁判所の尋問調書及び証人浅野彰の当公判廷における供述によれば、同人らは交通の殆んどない同日午前一時頃右望月運送店前路上に二台のトラツクを夫々の荷台の後尾を向い合わせるようにし、その間に約一米余の間隔を開けて停車させたうえ、約一五分間に亘り夫々シートで被われている荷台の後尾から積荷を卸して同店内に運び込む作業に従事したが、その間同人らはいずれも同店前をトラツクが通過するのに気づかなかつたことが認められる。しかし当時同店前路上の交通がいかに閑散であつたとはいえ、右大橋らはシートで被われた二台のトラツクの荷台とそれが停車したゝめ表出入口が殆んど塞がれた状態になつている同店との間を往復する荷卸作業や運賃の精算事務に従事していたのであつて、特に同店前の交通に注意を払つていたというわけではないから、必ずしも同店前の通行車輛に気がつく状態にあつたとは思われないし、かりに、当時気づいたとしても、それが特に何らかの印象に残る程異常な事態でない限り、自動車運転手としては、ことさら記憶に止めるものでないことは、日常の経験則に徴しても明らかである。従つて右の各供述から直ちに一〇五号車がその間同店前を通らなかつたとは断言できない。またかりに所論のように同店前を一〇五号車が通過した事実がなかつたとしても、東海道から極東商会前に迂回する道路は単に同店前路上のみに限らないのであるから、直ちに一〇五号車が極東商会前に停車していた事実を否定することにはならない。
(e) また被告人らは「酒井、大橋両名が極東商会前を通過した時刻は午前一時二〇分を過ぎていなかつたことは明らかである。そして一方李得賢ら両名の乗る一〇五号車は午前一時五分頃沼津本社を出発したのであるから、一時二〇分以前に極東商会前に達しうる可能性はない。それ故酒井、大橋の目撃したトラツクは一〇五号車ではない」という。
なるほど前記酒井、大橋の時刻に関する各供述記載を総合すると、同人らが極東商会前を通過した時刻は、同日午前一時一五分ないし二五分頃までの間のことであることが認められる。そして前記冒頭〔四〕(3)に認定したように李得賢ら両名の乗る一〇五号車は同日午前一時過ぎ、遅くとも一時五分頃までに大一トラツク沼津本社を出発したのであり、第一審の検証調書(往復路の所要時間の測定に関するもの)によれば、右本社から極東商会前までの間を大一トラツクの自動車が通常東海道を往復する速度(時速約三〇粁)で走行すれば、一八分を要することが認められるけれども、当夜一〇五号車が果してその程度の速度で走行したかは明らかでなく、むしろ、鈴木一男の検察官に対する供述の録音及び大一トラツク運行証明書(同号の八の八三号)によれば、李得賢は平素大一トラツクの同僚から「ロケツト」とか「ジエツト」という仇名をつけられるほど高速度で運転する習癖があり、現にその前日の五月一一日東京から沼津本社への帰途丸正運送店へ立寄つた際も、午前三時五〇分頃丸正運送店を出発し、午前四時頃沼津本社に到着していることが認められるから、当夜一〇五号車が午前一時二〇分以前に極東商会前に到着しうる可能性があつたものといわなければならない。
以上本項において検討を加えたところから明らかのように、酒井、大橋両名が目撃した極東商会前に停車していたトラツクは、「大一」のトラツクであつたという旨の供述の信憑性を否定するに足りる証拠はなく、またそれが李得賢ら両名の乗る一〇五号車であることを否定するに足りる証拠もないから右主張はいずれも理由がない。
(2) 鈴木自白の信憑性について。
この点に関し被告人らは
(a) 鈴木自白は強制拷問による自白であつて任意性がない。とくに録音三巻に収められた検察官の面前における自白は、検察官が表面的には如何にも任意な供述を求めるような態度を装いながら、鈴木一男が自白を飜そうと一瞬迷う気配を示すと「君は前にこう述べているが間違いないんだね」と念を押したり、また全く別個の質問を始めるなどして自白を飜そうとする機会を奪うなど実際には強制のもとになされた自白である。
(b) 鈴木自白によれば、李得賢ら両名は五月一二日午前一時五分頃洋紙及び雑貨類を積んだ一〇五号車に乗組み大一トラツク沼津本社を出発し東京へ赴く途中、三島市内において東海道の三島大社前から迂回して丸正運送店から少し離れた極東商会前路上に一〇五号車を停めて本件犯行に及び、これに時間を費してから再び東京へ向つて走行を続けたという。しかし実際には一〇五号車は途中極東商会前路上に停車した事実はなく、箱根峠茶屋の手前附近において後続の一六〇号車及び一六四号車に追越されたのは、積荷が後続の二台に比して著しく重く速度があがらなかつたためと三島市内において噴射ポンプに注油して時間を費したためである。従つて、本件犯行のため時間を費した旨の前記鈴木自白は信憑性がない。
鈴木自白によれば、李得賢は本件発生当夜沼津本社から東京へ向うトラツクの内で初めて鈴木一男に対し、本件犯行の計画を打ちあけ、これに加担するようもちかけた結果両名の間に共謀が成立したというけれども、このような重大凶悪な事犯の共謀が僅か数分を出でないトラツクの運転中になされたというような事実は不自然で到底措信しがたい。また積荷を満載したトラツクを三島署にほど近い極東商会前に停車させて強盗殺人の犯行に及んだという点も非常識で措信しがたい。
と主張する。
右主張について検討すると、
(a) なるほど、鈴木一男は右事件の被告人としてその審理を通じ、また本件の証人として、当裁判所の尋問に対し、警察において多数の取調官に取り巻かれて自白を強要され、食事時間に食事を与えられず、取調中長時間に亘つて正坐させられてあぐらをかくことを許されず、正坐を崩すと取調官から小突きまわされる暴行を受けた結果、不本意ながら虚偽の自白に及んだ旨供述しているけれども、この供述は右事件の第一審第一一回公判調書中の証人栗山敏隆、同稲葉定信、同石塚多作の供述部分、第一二回公判調書中の証人鈴木亀吉、同清水初平の供述部分と対比して直ちに措信しがたく、他に鈴木自白の任意性を疑わしめるような事情は認められない。かえつて、右証拠によると、鈴木一男は警察の取調に対し当初犯行を自白したものゝ、その後検察官の取調が開始されると自白を飜し、犯行を全部否認したゝめ、警察は取調官を従来同事件の捜査に関与しなかつた者に交代させ、白紙の状態に戻して再度鈴木一男の取調に当らせたところ、同人は再び犯行を自白するに至り、その後は検察官の取調に対し終始自白を維持したが、この間検察官はさきにした犯行否認の供述をも供述調書に録取したことが認められる。かゝる事情に徴すると警察、検察官が鈴木一男の取調について、一方的に自白を強制したものとは認められず、同人の弁解にも一応耳を傾けると共に否認後の再取調においても取調官を交代させるなど慎重な配慮を加えたことが窺われるし、また録音に収められた検察官の面前における供述内容に徴しても、鈴木一男の取調にあたつた検察官が所論のように自白を飜そうとする気配が感ぜられると誘導尋問によつて、これを阻止し、或いは質問を他に転ずるなどして弁解する機会を与えなかつたという事実は窺うことができない。従つて、右の自白が強制拷問によるものとは認めがたい。
(b) 李得賢ら両名は丸正事件の被告人としてその審理を通じ、また本件の証人として当裁判所の尋問に対し、当夜一〇五号車が平素よりも余分に時間を要した理由について前記主張に副う供述をしているけれども、右速度に関する供述は当日一〇五号車を運転し静岡、沼津間を走行して李得賢ら両名に引継いだ大一トラツクの運転手野口和夫の第一審第八回公判期日における、右トラツクの積荷は約七トン前後であつて、通常の場合に比して特に重いということもなく、エンジンに不調の点はなかつた旨の供述と対比して措信しがたい。また噴射ポンプに注油した旨の供述も、確定事件第一審が昭和三一年一一月二八日に実施した検証の際、李得賢と鈴木一男とが噴射ポンプに注油のため停止した地点として指示した場所は全く異り、その間の距離が約四五〇米もあつたことに徴すると、直ちに措信しがたい。たゞ弁護人は李得賢ら両名が丸正事件の被疑者として三島署において取調を受けた際、いずれも身柄を拘束され互に接見交通が許されていなかつたにもかゝわらず当夜一〇五号車が遅延した理由の一として、噴射ポンプに注油していたためであるという極めて異例に属するような事情を期せずして主張した事実に徴すると、単に検証時において指示した停車場所の相違などは真実性を否定するにあたらないという。しかし、鈴木一男は警察官の取調に対し「当初噴射ポンプに注油したため遅延したと虚偽の弁解をしたのは、李得賢から、後日遅延の理由を尋ねられた際は三島市広小路の手前で噴射ポンプに注油したことなどのためであるというよう指示されていたからである」と供述しているのみならず、渡辺成彦、田代喜作の司法巡査に対する各供述調書、辻綽彦の司法警察員に対する供述調書によると、李得賢は全く故障していない一〇五号車の噴射ポンプを故障しているといつて大一トラツクで定められた手続によらないで修理に出した事実が認められ、かゝる事実に徴すると所論の事情も李得賢ら両名の無実を裏付ける理由とは認めがたく、その他鈴木自白の信憑性を否定するに足りない。その他所論の点も未だ鈴木自白の信憑性を疑わせる事由とは認めがたい。
(五) その他李得賢ら両名の犯行であるとは認めがたい事情
この点に関する被告人らの主張は、
(1) 李得賢ら両名には当時金銭を必要とする事情がなかつたから本件犯行に及ぶ動機は存在しないし、かりに金銭を必要とする事情があつたとしても、日頃トラツクの運転中に勤務先の大一トラツクに無断で他から貨物の運送を引受けてその運賃を自分の手に利得するとか、或いは運送途中積荷の一部を横領するなど、敢えて殺人という大罪を犯さなくとも金銭調達の手段は他にいくらでもあつた筈であり、このことは李得賢ら両名共十分知つていた筈であるから、本件犯行に出でるというようなことは考えられない。
(2) またちよ子が日頃営業資金を入れて所持していた鞄の中に果してどれほどの現金が入つているかは、李得賢ら両名にとつて到底知る由もなかつたのであるし、またたとえ貨物の積卸に立寄つたかのように装つて丸正運送店に侵入したところで、果してちよ子がこの鞄を持つて店先へ現われるか否か図り知れないのであるから、李得賢ら両名がちよ子から鞄の金を奪取することを計画するということは不自然である。
(3) また本件発生当夜午前一時に大一トラツク沼津本社から東京へ向けて出発する予定のトラツクは李得賢ら両名の乗組む一〇五号車のほか一六〇号車と一六四号車の二台があつた。従つて、もし李得賢ら両名が本件犯行に及ぶことを企図していたとすれば、途中三島市において丸正運送店に立寄るため横道にそれている間に後続の二台に先行されることも当然予想しなければならず、そうなれば後に横道にそれたことが発覚して疑惑をうけることは必至であるから、両名としては沼津本社を出発する際他の二台を先行させた後これに追従する筈である。それにもかゝわらず、両名が敢えて他の二台よりも先に出発したことは、両名がかゝる計画をしていなかつたことの証左である。
(4) また丸正運送店二階には栄太郎夫婦が寝ているから、もし犯行による物音や被害者の叫び声があれば、栄太郎夫婦に気づかれる危険は極めて大きい筈である。このことは既に幾度も同店に立寄つている李得賢ら両名としては十分知つていた筈であるから、かゝる危険を敢えておかすほど無暴の挙に出るということは到底考えられない。それ故李得賢ら両名が犯行に及んだものとは認められない。
(5) また李得賢ら両名が当夜沼津本社から箱根接待茶屋までを走行する間に噴射ポンプに注油し、あるいは積荷が重かつたことなどの理由から、通常右の区間を走行する場合に比較して一五分間の遅延を生じているが、かりに李得賢ら両名が右事件の犯人であり、また犯行のため右一五分の遅延を生じたものであるとしても、犯行に要する時間はこの一五分間だけしかなかつたのであるし、しかも三島大社前から極東商会前まで迂回し同所から、丸正運送店までを往復するに要した時間を差し引くと犯行に費された時間は僅かに一一分か一二分間を出でないこととなる。しかし本件犯行は到底この程度の時間で遂行できるとは思われない。従つて犯行の所要時間の点からみても李得賢ら両名が犯人であるとは認めがたい。
というのである。
以下右主張について検討する。
(1) なるほど李得賢は証人として当裁判所の尋問に対し、本件発生当時金銭に窮していた事実はなかつた旨供述しているけれども、李みどり、芹沢みや子、川口智子、川口静一、安藤秀芳、松浦重男、岡崎久男、長崎ひさ、斉藤忠助、杉本とよの司法巡査に対する各供述調書、李得賢の司法警察員に対する昭和三〇年六月一日付並びに同月一八日付各供述調書及び李得賢の長男康弘及び長女和子から李得賢に宛てた手紙二通(同号の七、八)を総合すると、当時李得賢は大一トラツクから毎月僅かに金一五、〇〇〇円余の手取給与を支給されていたに過ぎず、しかも毎月宮城県に住む妻子のもとへ七、〇〇〇円を送金し残額は、酒好きのため屡々大一トラツク沼津本社附近の酒屋へ出入りして酒代や煙草代に費消していた関係上つねに金銭的な余裕のない生活を送つていたが、とくに同年四月一九日長男康弘から学資に困つているから送金してほしい旨の手紙が来たものの同月末に例月のとおり七、〇〇〇円を送金しただけで康弘からの要求に応ずることができなかつたことが認められる。従つてかゝる事実に徴すれば、当時金銭を必要とする特段の事情が存しなかつた旨の李得賢の前記供述は措信しがたい。
また塚本常子(同月二〇日付司法巡査河合又一に対するもの)佐瀬乙太郎、内山正夫、飯田歌子芹沢みや子(同月九日付)、川口静一の司法巡査に対する各供述調書、及び鈴木一男の司法警察員に対する昭和三〇年六月一〇日付供述調書、同人の検察官に対する同月一六日付供述調書、証人鈴木一男に対する当裁判所の尋問調書によれば、同人が当時大一トラツクから支給される毎月の給与手取額は一二、〇〇〇円余に過ぎず、その中生活費として七、〇〇〇円を母に渡し、残額は独身生活の無聊から屡々遊里に足を運ぶなどして費消するため常に小遣銭に不足で、同年三月まで名古屋支店に勤務している間同地の食堂に対する飲食代金未払分九〇五円及び同地の質屋に対する入質金三〇〇〇円の債務を負担していたことが認められる。
それ故、むしろ李得賢ら両名はいずれも当時薄給のため日頃小遣銭に不足しがちであり、とくに李得賢は前記のように子供達の学資の捻出に苦慮し、一方また鈴木一男は質屋に対する前記債務の返済等に苦慮していたことが窺われるのである。またおよそ犯人が金銭を得るための手段として強盗殺人を犯すのは必ずしも金銭獲得の方途が他になかつたゝめであるとは限らない。むしろ、所論のような合理的思考をめぐらすことなく、無分別に強盗殺人という大罪を犯す挙に出でることもありうることであるから、たとえ李得賢ら両名にとつて当時所論のような金銭調達の方途があり、同人らがこれを認識していたとしても、かゝる事情は同人らが本件犯行に及んだことを疑わしめる事由とはならない。
(2) ちよ子が夜間貨物積卸のため自動車が同店に立寄る都度直ちに現金を入れた鞄を所持して店先に起き出したことは前記(一)、(4)、(a)に認定したとおりであり、また小出綾子の司法巡査に対する昭和三〇年五月一二日付供述調書、神部信太郎、佐野豪夫、中島四郎、安藤秀英、鈴木松尾、秋山恤平、岩崎由郎、竹内勝司の司法巡査に対する各供述調書によれば、ちよ子が日頃所持していた右鞄の中にはつねに運賃支払資金として数千円の現金が準備されており、しかも同女は運賃を支払う際同店々先にあるカウンターを間にして運転手らと相対したまゝ運賃の清算をしていたが、隻腕のためカウンターの上に鞄をのせて片手でその口をあけて現金を出し入れするために自然鞄の内部が運転手らの視線にさらされる結果となり、運転手らも右鞄につねに数千円の現金が在中することを知るようになり、大一トラツクの運転手仲間でも折にふれてこのことが話題にされていたことが認められる。してみれば、昭和二七年一〇月以来大一トラツク沼津本社に勤務し、この間しばしば同店に立寄つたことのある李得賢としては当然他の運転手と同様かゝる事情を知つていたものと思われる。この点について証人李得賢に対する当裁判所の尋問調書中、丸正運送店において貨物積卸の際運賃はつねに助手が受領していたから、現金の所在さえ知らなかつた旨の供述は前記認定事実と対比して到底措信しがたく、他に右主張事実を認定するに足りる証拠はない。それゆえ所論のように李得賢ら両名には本件犯行を計画する可能性がないということはできない。
(3) 李得賢が夜間丸正運送店二階に栄太郎夫婦らが就寝していることを知つていたことは鈴木自白によつて明らかであるが、後記(六)、(三)、(1)に認定するように、同店には毎夜数台のトラツクが貨物積卸のため立寄つていたから、ちよ子が叫び声を挙げ助けを求めるなど異常な声や物音がしないかぎり階下における若干の物音では当然に栄太郎らの眠りを覚ますとは限らない。従つて同店において毎夜トラツクが立寄りその都度貨物の積卸が行われていたという特殊な事情を考慮に入れると、栄太郎が二階に就寝しているのを知つていたということはその者が犯人であることを否定すべき事由とは認めがたい。また小出博の司法巡査に対する昭和三〇年五月一二日付供述調書によると、深夜から未明までの間同店に立寄るトラツクは四、五台から多い時は八台程度で、間断なく発着していたというわけではないから、所論のように貨物積卸のため立寄る他のトラツクに出会う可能性がそれほど高かつたわけではない。それ故所論の各事情は李得賢ら両名が本件犯行に及んだことを疑わしめる合理的事由とは認めがたい。
(4) また同年五月一二日午前一時大一トラツク沼津本社から東京方面へ向つて出発する予定のトラツクは李得賢両名の乗組む一〇五号車のほか渡辺広二の運転する一六〇号車と佐藤三二の運転する一六四号車があつたことは、金子茂雄の司法警察員並びに司法巡査に対する各供述調書によつて明らかであるが、第一審第六回公判調書中証人佐藤三二同渡辺広二の各供述部分によると、李得賢ら両名の乗組む一〇五号車は大一トラツク沼津本社を出発後途中大一トラツク横浜支店を経由して東京へ行く任務を帯びていたのに対し、他の二台はいずれも途中東海道から離れた大一トラツク小田原荷扱所へ立寄る予定になつていたことが認められるから、もし一〇五号車が途中三島市において順路から外れたことを後続する他の二台の車の運転手に目撃されゝばともかく、そうでないかぎり、たとえ一〇五号車が進路から外れている間に後続の二台が先行したとしても、そのことから当然に一〇五号車が途中東海道から外れていたことが、他の二台の運転手らに発覚されるとは限らないのである。すなわち、一〇五号車が東海道から外れている間に他の二台を先行させた後、遥か後方からこれに追従すれば、一〇五号車と他の二台とは途中立寄る場所もまた積荷の届先も異るのであるから、一〇五号車が進路から外れたことを他の二台に気づかれずに終るということも充分考えうるわけである。しかも一〇五号車は沼津本社を出発した当時他の二台と相前後して走行したわけではないから、かりに三島市において東海道から外れたとしても後続する二台の運転手らにこれを目撃される状況にはなかつたのである。従つて李得賢ら両名が当夜他の二台よりも先に出発したことはなんら李得賢ら両名が犯行の計画を有しなかつたことを窺わしめる事由とはならない。また、かりに李得賢ら両名が沼津本社を出発する際、犯行の計画を有しなかつたとしても出発後三島市に至る途中において犯行が計画されたということも考える余地があることであり、また犯行を共謀するについても必ずしも仔細に長時間に亘つてしなければならないわけのものでもないから所論の点はいずれにしても李得賢らが犯行に及んだことを否定すべき事由とは認められない。
(5) 果して犯行にどれだけの時間を要したか正確にこれを知りうる証拠はないが、前記大村鑑定によれば、犯人は前記のように頸部を絞扼し、絞頸時痙攣によつて生じた鼻腔出血によりAB血痕が形成され、これが凝固乾燥した後更に死体を仰向きの状態からうつ向きの状態にしたこと、そして絞頸に着手してから絞頸時痙攣の生ずるまで数分間を要し、更に右血痕の凝固乾燥に五分ないし一〇分間を要することが認められる。従つて右犯行には合計一〇分ないし一〇数分間を要する、換言すれば、一応右時間の余裕があれば犯行を遂げうるものといわなければならない。なお弁護人は、死体解剖の結果、心臓内に豚脂様凝固物の存在が認められたが、これは法医学上絞頸の着手から死亡までの間に長い時間を要した場合に生ずる現象であるから、このことからも犯行が長時間に亘つたことが窺われるという。死体解剖の結果心臓(右心室)内に極く少量の豚脂様凝固物の存在の認められたことは前記(二)、(1)、(a)に認定したとおりである。しかし大村鑑定によれば、一般に急性窒息死の場合心臓内の血液は全く流動性であるが、時にはその中に凝血乃至豚脂様凝結物を含んでいることもあり、また死後酵素等の働きによつて血液の性状が変化し流動血の中に凝固物が含まれることもありうるから、豚脂様凝固物の存在することは必ずしも絞殺の着手から死亡まで時間的間隔のあつたことを推認する決め手とはならないこと。そして鈴木完夫作成の鑑定書には他の臓器に絞頸の着手から死を決するまで緩慢な経過を辿つたものと認めるべき所見の記載がなく、また豚脂様凝固物は極く少量であるという記載のあることを総合考察すると、絞頸の開始から窒息死に至るまでに要した時間は通常の場合に比してとくに長い時間であつたとは認められない。従つて右の事情は前記認定を左右するに足りない。
ところで、一方前記冒頭四、(3)に掲げた各証拠によると、李得賢ら両名の乗つた一〇五号車は五月一二日午前一時過ぎ、遅くとも一時五分までの間に大一トラツク沼津本社を出発し、その後約一五分遅れて一時二〇分頃出発した一六〇、一六四号車に箱根山接待茶屋の手前で追越されたことが認められる。従つて、かりに李得賢ら両名が沼津本社を出発後東京へ向う途中三島大社前において順路から外れて極東商会前に迂回し犯行に及んだものであると仮定し、また沼津本社から三島大社前までの間を後続の二台(一六〇、一六四号車)と同一速度で走行したと仮定すれば、犯行に要した時間は三島大社前から丸正運送店まで迂回した時間を含めてほゞ一五分を超えることはないものといわなければならない。しかし、当夜果して一〇五号車と後続の二台が夫々どの程度の速度で右の区間を走行したか明らかではない。そして、前記(四)、(1)、(d)に認定したとおり、一〇五号車については沼津本社から丸正運送店までの間を一〇分間前後で走行した可能性もあるのだから、もしそうだとすれば、到着時刻は一時一五分頃であり、犯行に一五分を要したとすれば一〇五号車が犯行後再び順路東海道に立ち戻つた時刻は一時三〇分頃となる。一方後続の二台が前記確定事件第一審の検証調書(往復路の所要時間の測定に関するもの)に従い、同調書にいう大一トラツクの自動車が通常東海道を往復する速度(時速約三〇粁)で走行したとすれば、一〇五号車が右東海道に立ち戻つた地点に到るまで一六分余を要するから、その時刻は一時三六分頃となる。すなわち、一〇五号車が同地点を通過した時刻に遅れること約六分余であり、李得賢ら両名には未だ約六分余の余裕があるといえる。それ故犯行の時間の点から李得賢ら両名にはその可能性がないという右主張は理由がない。
(6) なお、こゝで捜査段階において警察取調係官が予断を懐き、栄太郎ら小出一家を庇護し、当初から犯人外部説殊に大一トラツク従業員説に従つて、李得賢ら両名を寃罪に泣く結果に陥れた偏頗な処置が採られたという疑いについて言及しておくこととする。
なるほど、鈴木完夫作成の鑑定書の冒頭には「昭和三十年五月十二日付三刑第二四五三号で三島警察署長を通し三島警察署司法警察員警部石塚多作の嘱託により五月十二日午前一時三十分頃三島市田町一三九〇洋服仕立業小出栄太郎方に於て発生せる被害者三島市田町一三八四家事手伝小出千代子当三十三年被疑者不詳に係る殺人被疑事件に関し………」と記載してあつて一見本件犯行は一二日午前一時三〇分頃発生したかの如く読みとれるけれども、死後の経過時間等に関する鑑定を求めるのにその時刻を既定事実として申し出ること自体洵に無意味不可解なことであるのみならず、この点に関し昭和三七年四月一三日付公判調書中の証人鈴木完夫の供述部分によると、同人は静岡県警察本部鑑識課員からの連絡により鑑定を求められて五月一二日早朝犯行現場に赴き鑑定をした者であるが、鑑定事前に自分から一時三〇分なる言葉を発したことはなく三島署員の誰かゞいつておつたと思う。鑑定書に「午前一時三〇分頃発生した………」と記載したのは、二三日遅れて届けられた三島警察署長名義の鑑定嘱託書の様式が定まつており、それに従つたものと思われる。自分はそれらに煩わされることなく誠実に鑑定をしたと述べている。更に昭和三七年五月二七日付証人村松正吉尋問調書、同年三月二日付、同月一六日付、同月二三日付各公判調書中証人石塚多作の供述部分、同月三日付公判調書中の証人石塚多作、同山内隆の各供述部分、同年四月六日付公判調書中の証人山内隆、同西山芳衛の各供述部分の各記載によると、右鑑定の嘱託は丸正事件発覚当日急遽電話でなされ、後日鑑定嘱託書が作成されて前記鈴木完夫の手元に届けられたが、何人が一時三〇分と記載したか又どのような理由でその記載がなされたか判然しないが、いずれにしても捜査関係の警察係官は当時既に犯行が右時刻に発生したとの予断を持つていたものでないことは十分窺われる。いずれにしてもこのような重大な事項について軽卒にこのような記載のなされたことは、係官の不注意によるとはいえ、洵に遺憾なことではあるけれども、この事実から事件捜査が一定の予断偏見の下に始められたとみることは早計に過ぎるものと考えられる。
また証人中西愛子(昭和三九年六月二三日付)、同小出いう(同月二二日、二三日付)の各供述調書の記載、押収してある香典帳(昭和三七年押第八号の一一〇)によると、昭和三三年一月二五日綾子の葬儀に際し三島警察署員で本件捜査を担当したことのある中山昭二外二名が金額千円の香典を持参提供した事実が判明する。なるほど、その当時の貨幣価値を考慮にいれて右香典帳の記載によつて窺われる近隣の会葬者の提供した香典の額と比較して稍々多額に過ぎる感があり、これら警察官と小出一家との間に何か特殊の関係が存しはしないかと疑う余地があろうけれども、前記各証人(いずれも警察官)の供述、当公判廷における証人中山昭二、同山内隆の各供述を総合すれば、丸正事件発生以前において栄太郎等小出一家と三島警察署職員とが特に親しかつた事実はなく、右事件発生後において同署職員が捜査等のため度々右小出一家を訪れ家族とも顔なじみになり、お茶の御馳走になる程度の親しさになつたのであるが、丸正事件の捜査に当つてはこれがために同家族を庇護するの余り偏頗な措置を講ずるようなことはなく、犯人内部説外部説等各場合を想定して可能なかぎりの捜査を行つたものであることが窺われる。それ故、この香典提供の件も以上認定の事実にかんがみるときは、警察官中山昭二等の全くの善意から出たことで他意はないものと考えるのが相当であろう。
更に記録全般を検討してみて本件捜査について遺憾な点が皆無であると断言することはできないとしても、警察関係者がことさらに、栄太郎等小出一家に庇護を加え李得賢ら両名を寃罪におとしいれた偏頗な捜査を行つた事跡を発見することはできない。
〔六〕 丸正事件の犯人は栄太郎、幸子、博の三名であるとの主張について
以下ここでは前記二の〔一〕の分類列挙のうち〔13〕直接栄太郎、幸子、博三名の犯行であることを認めるに足りる証拠の存否についての検討に入ることにする。
(一) 犯行の動機について
この点に関する被告人らの主張は、
「栄太郎ら三名には夫々ちよ子を殺害する動機が存在する。すなわち、ちよ子の亡父吉造は生前同人方の不動産をちよ子の名義にし、またその死後同人の営んでいた運送業は名義上博が承継したものの、その実権はちよ子が掌握して毎月約一〇万円の収入をあげていた。これに対し栄太郎は胸部疾患に罹つたため洋服仕立業も思うにまかせず、栄太郎らは三度の食事さえ父吉造の許に寄食する有様であつた。そのため本件発生の約一年前まで生活保護などをうけるほど貧困な状態に陥つていた。また博も名義上は営業主でありながら、ちよ子の指示のもとに同店で労働に従事し、その収入もちよ子から小遣銭を貰う程度で酒代に窮することも多かつた。また悪友との接触も多く素行も修まらなかつたので、かねがねちよ子から注意を受けることも度重つたため同女の存在を煩らわしく思う気持が強かつた。このような事情から栄太郎は自分が長男でありながら、ちよ子との間に日常の経済生活に著しい隔りが生じ、同女に対する羡望と不満が募り、一方博もまた酒代に窮した挙句運送店経営の実権やちよ子の所持する現金の奪取を計画し、本件強盗殺人の犯行に及んだ。」というのである。
右主張について検討すると、
証人小出栄太郎、同幸子、同博、同前島盛、同長崎慶策の当公判廷における各供述、証人小出いうに対する当裁判所の各尋問調書、第一審第一九回公判調書中の証人小出幸子の供述部分、小出綾子、小出栄太郎、小出博の司法巡査に対する昭和三〇年五月一二日付各供述調書、前島盛の司法巡査に対する供述調書を総合すると次の事実が認められる。すなわち、吉造は、生前自分の死後は運送業を不具の身であるちよ子に承継させたいという意志を洩らしていたことから、これを不満とする栄太郎の妻幸子と吉造の間が不仲となつたほか、屡々感情問題が生じ、その都度近隣に住む前島盛がその間に立つて仲裁していた。吉造が昭和二七年一二月二五日急死した直後、栄太郎ら兄弟は吉造が営んでいた運送業を誰が承継するかを相談したが、その際栄太郎は親戚の者などから長男が承継するのが当然であると奨められ自ら承継する旨を主張したが、これに対しちよ子、及び綾子は栄太郎が既に洋服仕立職人として手に職を有することを理由に運送業は自分達弟妹が承継する旨主張して反対したばかりでなく、当時栄太郎自身病弱で運送店の営業に不向きな事情もあつたため、そのまま洋服仕立業を続けることとした。そして運送業は博の名義でちよ子ら弟妹が承継し、ちよ子の将来は博が面倒をみることとなつた。しかし博は当時未だ未成年で自ら運送店を経営できる状態になかつたため、ちよ子が事実上の経営者となり、綾子と博がこれを補佐して経営を続け、事件発生当時毎日約三千円の収入があり、経費を差引いても収益は毎月数万円に達し、これによつて母いうほか弟妹ら家族の家計を賄つていたばかりでなく、栄太郎夫婦がちよ子名義の運送店二階に居住して消費した電気水道料まで負担していた。一方栄太郎は昭和二一年九月から右運送店の一隅に前記の洋服部を設けて洋服仕立業を始めたが、昭和二七年一月頃胸部疾患にかかり、一時仕事を休業して療養に専念するようになつた。この間栄太郎一家は収入もないため吉造方で食事を共にし医療保護と生活保護による扶助を受けたこともあつたが、約一年の後病も次第に快方に向い、同年一二月頃から再び洋服仕立業の仕事を少しずつ始めるようになり、翌二八年には全快して、洋服仕立業を再開し、生活保護等の扶助も辞退して本件発生当時は洋服仕立業によつて毎月二万円前後の収入を得て一家三人の生活を維持しうる状態にあつたことが認められる。
右事実に徴すると、吉造の生前から死亡直後までの間運送業の承継をめぐつて栄太郎夫婦と吉造あるいはちよ子らとの間に、屡々意見や感情の対立があつたことが窺われるし、またちよ子の営む運送業の収益と栄太郎が洋服仕立業からうる収入との間には、かなりの懸隔があつたことは明らかである。前記のように運送業の承継をめぐつて家庭内に風波が起きたのも、結局は洋服仕立業と運送業との間の著しい収益の較差に起因するものではなかつたかと思われる。従つて、栄太郎夫婦がかねがねちよ子の得る運送業の収益に対して内心羡望の念をもつていたであろうことは推測することができる。しかしそれだからといつて、当時栄太郎夫婦がちよ子を排して運送業の経営を自らの掌中に収めようという意図をもつていたと速断することはできない。前記認定のように吉造の死亡前後の頃に生じた運送業の承継をめぐる意見や感情の対立も一応栄太郎が譲歩した形でおさまつたのであつて、その後表立つた争いの起きた形跡は認められないのであある。証人小林さち子に対する当裁判所の尋問調書によれば、本件発生当時ちよ子は幸子が母親のいうを大事にしないといつて非難し、幸子と口論したことのあつたことが認められるけれども、通常この程度の争いは平和な家庭においてもままありうることであり、単なる対人的関係に原因する争いであるから、この事実から当時依然運送業の営業権について争いが続いたことを窺うことはできない。むしろ証人小出幸子の当公判廷における供述によれば、幸子は自分が外出した際等自宅にいなかつた場合を除いて、ちよ子が運送店階下六畳間に泊る場合は不具の身である同女のために必ず寝床をとつてやり、時には寝具の洗濯をしてやる等の心づかいをしてやつていたが、一方ちよ子も旅行に出た際など欠かさず幸子の子供のため土産物を持ち帰るなど互に通常の家族としての情誼を交していた事実が認められるので、幸子とちよ子との間には一過性の争いがあつたことはともかくとして、つねに感情の対立葛藤があつたものとは認めがたいのである。
また証人佐々木兼作の当公判廷における供述によれば、同証人は栄太郎方の近隣に住み日頃同人とも懇意にしていたが、同人が胸部疾患に罹つたと聞き、かねて同人の兄弟には結核を病む者が多く、過去にはそのため死亡した者もあつたことから、早期に十分な治療するに如かずと考えて、当時三島市の民生委員をしていた関係から栄太郎に対し医療保護等の扶助を受けるよう奨めたところ、同人は当初食事は吉造方で負担してもらつているし生活費の蓄えも未だ若干残つているから扶助を受けるには及ばない旨固辞していたが、右証人の強つての奨めにより扶助を受けるようになつたことが認められる。従つて、右扶助を受けるに至つた経緯に照らして明らかなように、吉造あるいはちよ子が栄太郎の困窮を顧みないため佐々木が敢えて援助の手を差しのべたというわけではなく、栄太郎らとちよ子や吉造との間の確執の存在を窺わしめる事情は認めることができない。むしろ前記認定のように、事件発生当時栄太郎は既に病も癒えて洋服仕立業を再開して、その収入のみによつて一家の生活を賄い、経済的に独立した生活を送つていたのであつて、洋服仕立業を続けていくうえに支障となる事情もなく、生活費はもとより営業資金等の調達に困窮していたという特段の事情も認めがたい。それ故、栄太郎夫婦がちよ子を排して運送業を自己の掌中に収めようという意図を有していたとは到底認めることができない。そして所論のように栄太郎とちよ子との間では日頃心配事の相談のなされた事実もないという事情があつたとしても、これによつて右認定を左右する事情とは認められない。
またちよ子が所有していた不動産としては、単に丸正運送店の建物だけで他に存在しなかつたばかりでなく、ちよ子はこれを所有するといつても名義だけで、もとより二階に居住する栄太郎らから家賃等使用料を徴していたわけでもないことは前掲証拠によつて明らかである。従つてこのことによつて栄太郎らがちよ子の所有に属する不動産の奪取を企図していたと推測することも早計である。
前掲証拠によれば、博は給料のような一定額の支払いを受けることなく時折ちよ子から小遣銭を貰う程度であつたが、酒好きのためしばしば飲食店等に出入りしていたこと、また度々ちよ子の注意を受けていたにもかかわらず、一時はヒロポンを注射する習癖に陥り、あるいは酒場の女と恋仲になるなどしたため、ちよ子が博の将来を憂慮していたことが窺われる。しかし、所論のように博が酒代やヒロポンの購入代金の調達に苦慮していたという事情は認められない。また証人前島盛、同小林さち子の当公判廷における各供述によれば、吉造の死後ちよ子が事実上営業主となつて運送業を主宰していたが、同女はかねがね営業権を将来博に譲る旨他に洩らしていたことが認められるから、同女は博が成長し自ら運送店を主宰できる年齢に達した時は、同人に営業を委せる意志でいたものと推測される。それ故、博についても敢えてちよ子を殺害して同女の所持金や営業権の奪取を企図する必要はなかつたものと推認することができる。以上を総合すれば、結局栄太郎ら三名にちよ子を殺害する動機がある旨の所論は臆測の域を出でないもので首肯しがたいものといわなければならない。
(二) 定期預金証書の発見について
この点に関する被告人らの主張は、
「(1)犯人によつてちよ子が日常所持していた鞄の中から現金と共に奪われた定期預金証書三通はいずれも博らの居住している三島市田町一、三八四番地小出いう方居宅の仏壇下押入れの中に隠匿されていたこと、(2)右定期預金証書が発見された時のいうの狼狽が異常であつたことに徴すれば、右定期預金証書は博ら内部の者が本件犯行に及んだ際現金と共にこれを奪つた後、右押入れ内に隠匿しておいたもので、この事情をいうは右定期預金証書の発見によつて始めて知り甚だしく狼狽したことは明らかである。」というのである。
右主張について検討するに、証人山内隆、同中山昭二の当公判廷における各供述、証人小出いうに対する当裁判所の昭和三九年六月二二日、同月二三日付各尋問調書、同人の司法巡査に対する昭和三〇年九月二四日付、司法警察員に対する同月二六日付、同年一〇月一〇日付各供述調書、小出綾子並びに小出博の司法巡査に対する同年九月二六日付各供述調書、司法警察員作成の同年一〇月一日付実況見分調書によれば、次の事実が認められる。
すなわち、昭和三〇年五月一二日丸正事件が発覚した後直ちに家人が警察の依頼により被害金品の有無について調査し、同店備付の現金出納簿の記載から推定された現金入れ鞄の中にあるべき金額と現に鞄の中に残つていた現金とを照合した結果現金約六、〇〇〇円余が失われていることが判明したほか、三和銀行発行のちよ子名義の額面八万円の定期預金証書一通、及び綾子名義の額面七万円と五万円の定期預金証書各一通が右鞄の中はもとより日頃ちよ子が重要書類を収納していたタンスの抽斗などを探したが発見されず、しかもこれら定期預金証書三通は同年三月頃ちよ子が右鞄に入れて所持しているのを綾子、博が夫々目撃したことがあつたため、右現金と共に鞄の中から失われたものと推測して、その旨三島警察署に届け出た。そのため、丸正事件発生当初これらも強奪されたものとして起訴されたのであるが、その後同年九月二三日、いうは日頃不用品を収納しておく自宅階下奥六畳間の押入内を整理していたところ、かつて博が着ていた古い作業衣の下から古夜具の皮に包まれたちよ子の防寒コートがあらわれ、そのコートの内に右定期預金証書三通が巻きこまれているのを発見した。いうは、先に強奪されたとして届け出た右定期預金証書を発見したことに驚いて直ちにこれを携えて丸正運送店に赴き、折柄同所に居合わせた娘愛子、綾子、栄太郎にその処置について相談した。その結果この事情を三島署に届け出ることとなり、同日直ちに三島署にその旨の届け出がなされた。右届出に基づき同署鑑識係巡査部長山内隆、同署刑事中山昭二の両名が直ちにいう方に赴いて、右定期預金証書発見の状況を明らかにするための実況見分を実施すると共に右家族全員について右発見時の状況等について取調を行つたが、結局同人らは右定期預金証書三通はいずれもちよ子が生前自ら誤つて右防寒コートの中に畳み込んだまま右押入に収納したものと判断するに至つた。
右認定事実に徴すると、本件発生直後になされた被害金品の申告のうち、ちよ子の所持していた右鞄の中から現金六、〇〇〇円が失われたことについては一応明確な根拠があつたのに対し、右定期預金証書三通については単に同女が日頃書類等の収納に使用していた場所に見当らず、また同女が同年三月頃右鞄に入れていたこともあつたということから、鞄の中にあつたのを奪取されたものと推測してその旨申告したに過ぎないもので、本件発生当時右証書が鞄の中に入れてあつたという確たる根拠は、当初から存在しなかつたものといわなければならない。なお現金や定期預金証書と共に右鞄の中から失われたとして警察に申告された「ちよ子」と刻した印鑑が未発見であるという事情は右認定を左右するに足りない。
また前掲各証拠によれば、本件発生直後に綾子ら家人が右定期預金証書の所在を探した際この不用品を容れた前記押入の中までは探さなかつたことが窺われる。しかも、証人小出いうに対する当裁判所の昭和三九年六月二二日付並びに同月二三日付各尋問調書によると、ちよ子は生前昭和三〇年三月頃まで外出時に前記防寒コートを着用していたが、右コートはちよ子が戦時中に作つたもので既に長年に亘つて着古したため、同女はかねがね家人に対してこの防寒コートを着るのも今年限りにして来年は新調する旨を話していたことが認められるから、同女には既に右防寒コートを将来再び着用する意思のなかつたことが推測される。また右定期預金証書は同年二月一八日から同年三月一日までの間に順次右銀行から発行されたものであることが右定期預金証書(同号の八五号ないし八六号)の記載から明らかであるから、これらの事実を総合すると、右定期預金証書三通はちよ子が同年三月頃右防寒コートを前記のような事情から不用品とするつもりで自ら右押入の中に古夜具皮に包んで収納する際、誤つて右定期預金証書をも一緒に右防寒コートの中に巻き込んだのではないかという疑もないではない。ともあれ、ちよ子以外の者が右証書を押入に隠匿したことを認めるに足る直接の証拠は一つもない。
また小出いうの司法巡査に対する昭和三〇年九月二六日付供述調書、小出愛子の司法警察員に対する同日付供述調書によると、いうは右定期預金証書を発見した際「ちよ子が死んでから後にまでこんな思いをするなんて生きるのが厭になつた、どこか遠いところへ行つて死にたい」などと嘆き、右証書を「焼いてしまおうか」ともいつた事実が認められる。なるほど「生きるのが厭になつた」とか「死にたい」などという言葉は狼狽の如何に大きかつたかを窺わせるし、単に被害申告をした物件が後に発見されたという出来事にしてはいささか度の過ぎた表現と受取れないこともないけれども、いうは当公判廷において、かかる言葉を発した理由について、被告人ら主張の如き事情によるものであることを否定しているばかりでなく、前記の如く直ちに右の事情を警察に申告している事実に徴すると、単にかかる狼狽振りが異常なほど大きかつたということから、犯人が内部の者であることを察知したことによる狼狽であると飛躍推断することはできない。むしろ、前記証拠を総合すれば、市井の一老婆たるに過ぎないいうの身にとつては、自らの或いは自分の家族の不注意から、事件直後過大な被害の申告をした結果、警察等捜査機関の判断を誤らせ、更には犯人として検挙、起訴された李得賢ら両名に対し過大な罪責を問う原因を招いたこと、しかも発見が自己の偶然の手によつたことが、大きな衝撃となり、これに困惑し、自責の念に駆られた挙句の狼狽とみるのが相当であろう。
なお被告人らは、右定期預金証書の発見を警察に申告するに至つたのは、当時博が丸正運送店で使用していた店員に命じていうのもとへ自動三輪車の掃除に使うボロ布を貰いにやつたところ、いうが右押入をあけてボロ布を探していた最中右定期預金証書を発見したのであつて、いうはその際右定期預金証書を同所に隠匿したのは博の仕業であり犯人は同人ら内部の者であることを察知したものの、定期預金証書を発見したことが、右店員に目撃されたため所詮これを焼却する等して右の事実を秘匿することはできないと考え、表面を糊塗するためには警察に申告するほかないとの結論に達したからであると主張する。なるほど小出博並びに小出綾子の司法巡査に対する同年九月二六日付各供述調書には「いうが定期預金証書を発見した際の状況は知らないが、きくところによれば博が自動三輪車の掃除に使うボロ切れを店員に命じていう方にもらいにやつたためいうが押入を探している内発見するに至つたということである」旨の記載がある。
しかし、右供述調書の記載はそれ自体から明らかなように他よりの伝聞供述を内容とするもので信憑性に乏しいうえに、当時丸正運送店に店員として働いていた田辺義雄、鈴木滋夫の両名はいずれも当公判廷において証人として「いうが定期預金証書を発見した場面を目撃したことはない」旨供述し、いうもまた証人として当裁判所の尋問に対し、かかる事実を否定し「博に依頼されてきた店員からボロ切れを求められて押入の中を探したのは別個の機会であつて、この時と異る」旨供述していることと対比して措信しがたい。むしろ証人小出いうに対する当裁判所の昭和三九年六月二二日付並びに同月二三日付各尋問調書、同人の司法警察員に対する昭和三〇年九月二六日付供述調書によれば、いうがこれを発見するに至つたのは同年九月二三日頃、彼岸も来たこととて夏物の衣類を収納し、冬物の衣類をとり出すため前記押入内の整理をしていた時の出来事であつて、当時同所附近にはいうのほか誰も居合わせた者はなく、従つていうが右定期預金証書を発見したのを目撃した者は誰もいなかつたことが認められる。その他所論のように栄太郎らによつて右定期預金証書が隠匿されたことを認定できる証拠は存在しないから、これを前提とする主張は採用するに由ないところである。
(三) 死体発見後栄太郎夫婦並びに博の示した不審の言動について
この点について被告人らは、「(1) もし犯行が死体発見現場で行われたとすれば、栄太郎夫婦の寝室である二階八畳間はその丁度真上にあたるばかりでなく、建物自体簡易な木造建築であるから、当然階下の物音に気付く筈であるにもかかわらず、同人らは事件直後警察の取調以来当審における証人尋問を通じてちよ子が階下で殺害されたことに全く気がつかなかつたと述べている。(2) 栄太郎夫婦は階下から三枝孝四郎らに呼ばれながら、直ちに階下へ降りようとせず、また栄太郎は階下へ降りてちよ子の死体を発見しながら、直ちに妻の幸子を呼ぼうとしなかつたこと。(3) 栄太郎は死体を発見した際両脚に巻かれてあつた腰紐を解きながら、頸部の絞条を解こうとしなかつたこと。(4) 栄太郎は二階から階下に降りた際既にちよ子が死亡していることを知りながら、死体に対し「ちよ子ちよ子」と呼びかけるなど、恰も始めてその異変を知つたかの如き芝居じみた言動を示したこと。(5) 栄太郎は死体が発見された直後その場にいた三枝孝四郎や杉山忠らに対し同人らが丸正運送店に立寄る以前には、同店に立寄つたトラツクはなかつたにもかかわらずちよ子が杉山忠らの立寄る以前に来たトラツクに起されたという架空の事実を告げて、恰もそのような事実があつたかの如き暗示を与えたこと。(6) 幸子は当日三島署において警察の取調に対し「栄太郎から聞いたところによると、同人は、死体の脚を縛つてあつた紐を解いたということである」という旨の供述をしているが、幸子が二階から階下へ降りた時既に死体の両脚に巻かれた紐は栄太郎が解き去つた後であるから、その場面を直接目撃した筈はなくまた栄太郎は事件発生直後三島署へ同行されて終日取調を受けこの間幸子と接見できない状態に置かれていたから、同女が栄太郎からかかる事実を聞知する筈がない。(7) 博は栄太郎の報らせによりいうらと共に死体発見現場に赴いたものの長く同所にとどまらず他の家族を現場に残したまま早々に自宅に戻つたこと。(8) 博は同年五月一二日三島署において那須田巡査から死体を目撃した際の状況について取調を受けた際、「ちよ子は頭を南側に向けうつ伏せになり口に手拭で猿ぐつわをされ、力まかせに縛られていた」という趣旨の供述をした。しかし博が栄太郎の報らせによりかけつけた際には死体は栄太郎によつてうつ伏せの状態から仰向きにされていたのだから、博がうつ伏せの状態を目撃する筈がない。」と主張する。
右主張について検討すると、
(1) 栄太郎夫婦の寝室であつた二階八畳間が死体の発見された階下四畳間の略真上の位置にあたること、及び同店が木造建築であつて構造上階下の物音が比較的容易に二階に達し易い建物であることは、証人小出栄太郎の当公判廷における供述、石塚検証調書、当裁判所の検証調書によつて認めることができる。そして栄太郎夫婦が犯行の行われたことに全く気付かなかつた旨述べていることは前記冒頭〔二〕記載のとおりである。
しかし、栄太郎夫婦が毎夜階下から聞えるトラツクの発着や貨物積卸の物音にも習慣的になつて、これに気をとめず、その都度目を覚ますということもなくなつていたことは証人小出栄太郎同幸子の当公判廷における各供述に照らして窺うに十分であり、また前記〔五〕、(三)に認定したとおりちよ子の死体所見上同女の口部は手拭で緊縛されて発声を困難にされていたばかりでなく顕著な抵抗の跡がなかつたことに徴すると、本件犯行時に二階に就寝中の者が当然それと気付くほどの被害者の叫び声や物音があつたものとは推認できない。それ故、かかる事情を考え合わせると階下でちよ子が殺害されたことに全く気付かなかつたという栄太郎夫婦の前記供述をあながち不自然視することはできない。
(2) 全証拠を総合しても、前記認定のとおり栄太郎が死体発見時に階下から杉山忠らに呼ばれながら直ちに階下へ降りようとしなかつた事実を認めることはできない。また所論のとおりたとえ栄太郎がいうら家族を呼びにいう方へかけつける以前に幸子を呼ばなかつたとしても、かかる事実は栄太郎と幸子とが共犯者であつたということを窺わしめる事由とは認めがたい。また他にこれを不審とすべき事由も認められない。
(3) 栄太郎が死体発見時に両脚を縛つてあつた腰紐を解きながら絞条を解かなかつたことは前記認定のとおりであつて、なるほど、その行為だけを捉えれば、所論のように両脚を縛つてあつた腰紐を解く位ならむしろその先に絞条を解こうとするのが肉親として理にかなつた自然な行動でありその意味では若干奇異な行動と受取れないでもないが、栄太郎は当審の証人として「絞条を解かなかつたのはちよ子が既に死亡していると悟つたためである」と述べているばかりでなく、一般に人が肉親の悲業の死を目撃した場合驚愕と狼狽のあまり冷静な判断力を失い、常識に反した異常な行動に及ぶことがままあることは経験則上明らかなところであるから、栄太郎が両脚を縛つてあつた腰紐を解きながら、絞条を解かなかつたことは必ずしも不自然な行動であるということはできない。
(4) 栄太郎が杉山忠らに呼ばれて二階から階下へ降りた際「ちよ子、ちよ子」と死体に向かつて呼びかけたことは当審第九回公判調書中の証人小出栄太郎の供述部分によつて明らかであるが、死体を発見した場合、かりにそれが既に死亡していると感じた場合であつてもなお生存に一縷ののぞみを託し生死を確認するためにこれを呼ぶことも人間自然の行動としてありうることである。従つて単に栄太郎の前記の行動だけを捉えて、芝居と断ずることは早計であるし、他に栄太郎が所論のように三枝孝四郎らに対して恰も自身が潔白であるかのような印象を与える目的でなしたことを認めるに足りる証拠はない。
(5) 証人杉山忠に対する当裁判所の尋問調書によれば、栄太郎が杉山忠に呼ばれて二階から階下へ降りた際、同人らに向つて、「同人らの前に立寄つたトラツクの運転手らによつてちよ子が起されたと話した」旨の記載があるが、反面当審における第九回公判調書中の証人小出栄太郎の供述部分には栄太郎は杉山忠らに向つて「あなた方の前に来たトラツクはなかつたか」と尋ねたという趣旨の記載があるから、栄太郎が果して所論のような言葉を口にしたということには疑いを容れる余地がある。
また、小出栄太郎の司法警察員に対する同年六月二〇日付供述調書によると、当夜、同店運送部にはトラツクから卸された貨物が見当らなかつたことが認められるから、この事実に徴すると、当夜杉山忠らの乗組む前記一七〇号車の前に同店に立寄つたトラツクがなかつたことが窺われるけれども、栄太郎夫婦は、冒頭に記載したように、杉山忠らの乗組む一七〇号車が同店に到着する数分前階下へ降りた際、六畳間の電灯が点けられ、また鞄を入れていた洋服ダンスの小抽斗があけられていて、寝床にちよ子の姿が認められなかつたため、同女はトラツクが貨物積卸に立寄つたので店先に起き出て運賃の清算をしているものと思つた旨当審においても証人として弁解しているのであつて、かりに栄太郎が所論のような言動に及んだとしても、その言動も右の弁解に符合していて、あながち不自然な言動であるとは認められず、他に右弁解自体の不合理であることを認めるに足りる証拠はない。それ故栄太郎が所論のように一七〇号車の前に立寄つたトラツクがあつたかのような暗示を与えることを目的として前記言動に及んだものとは認めがたい。
(6) 幸子が死体発見時栄太郎の後から階下へ降りた時、既に死体は栄太郎によつてうつ向きの状態から仰向きにされ、また死体の両脚に巻かれた腰紐も解き外されていたことは、第一〇回公判調書中の証人小出幸子の供述部分によつて明らかであるのに反し、同人の司法警察員に対する昭和三〇年五月一二日付供述調書中には「栄太郎がうつ伏せになつていた死体を上に向かせて足の紐を解いたといつていた」という旨の供述記載がある。
しかし、幸子は、この点について当公判廷において証人として、「栄太郎が死体発見直後現場へ急行した三島署員に対し、前記のように死体発見時に死体を動かした旨供述しているのを傍らにいて聞知したため、その後三島署へ参考人として同行され取調を受けた際前記供述調書に記載されたとおりの供述をしたものである」旨述べている。そして、当審第七回公判調書中の証人西山芳衛の供述部分によれば、栄太郎は死体発見後間もない同日午前三時頃現場に急行した三島署員西山芳衛から死体発見当時の事情を尋ねられた際、自発的に死体をうつ向きの状態から仰向きにし、両脚に巻かれてあつた腰紐を解いた旨を説明した事実が認められるし、証人小出幸子の当公判廷における供述、当審第一〇回公判調書中の同人の供述部分によれば、同人は死体発見時から三島署に参考人として同行されるまでの間、現場に居合わせたことが窺われるから、その間において幸子は栄太郎が西山芳衛に対して前記のように説明しているのを聞知したということも十分考えうることである。それ故、幸子の当公判廷における前記供述の信憑性も遽に否定しがたく、他に所論のように同女の前記司法警察員に対する供述が犯行の状況を直接目撃した結果であることを認めるに足りる証拠はない。
(7) 博が栄太郎の報らせによつて、前記死体発見現場へ赴いたものの間もなく家人をその場に残したまゝひとりで自宅に戻つたことは証人小出博の当公判廷における供述によつて明らかである。なるほど、肉親の死体が発見された現場から早々に立去るというようなことは肉親に対する情誼に富む者であれば、通常しない行動であろうことは所論のとおりである。しかしながら、同人は小出いう方に住む末弟であつて当時年は未だ若く、いわば責任のない身であつたことを考慮に入れると、その場を家人に委せて立去つたとも考えられるから右行動を捉えて所論のようにちよ子を殺害したため良心の呵責に堪えられず死体を正視しえなかつた結果であると断定することは相当でなく、他にこれを認定するに足りる証拠はない。
(8) 小出博の司法警察員に対する昭和三〇年五月一二日付供述調書によれば、所論のような供述をしたことが認められるし、博がいうらと共に現場に赴く前に、死体は既に栄太郎によつてうつ向きの状態から仰向きにされていたことも冒頭に認定したところである。従つて博がもしそれ以前に死体の状況をみていなかつたとすれば、死体が最初うつ向きの状態にあつたことは知らなかつた筈であるから、うつ伏せであつたという供述は一応疑をもつて見られても止むを得ないものといわなければならない。しかし右供述も「うつ伏せの状態であつた」という点を除いては、博が死体発見現場で目撃した当時の客観的事実に反するところはなくまた、当審第七回公判調書中の証人西山芳衛の供述部分によると、三島署員である同人が死体発見後間もない同日午前三時頃死体発見現場に急行した際、博は未だその附近に居合わせたことが認められるから、同人もまた前記〔六〕、(三)、(6)に認定したように栄太郎が西山芳衛に対し死体をうつ向きの状態から仰向きにした旨を報告しているのを傍で聞いたことが窺われる。してみると、博も死体が当初うつ向きになつていたことを目撃しないとはいえ、全く知らなかつたということはできない筈である。それ故、前記の「うつ伏せになつており」という記載は同人の取調にあたつた警察官の誤聞か或いは博の右伝聞に由来する供述の誤りではないかと疑うべき余地がある。従つて、かかる客観的事実に反する供述のある点を捉えて博が栄太郎によつて仰向きにされる以前の死体の状態を目撃した結果であり、右供述が博の無意識に述べた犯行の自供であるとすることには飛躍があるといわなければならない。
以上(1)ないし(8)に検討を加えた結果を総合しても、栄太郎ら三名が犯行に及んだことを窺うに足りる不審な言動はなんら認めることはできない。それ故この点の主張はいずれも理由がない。
(四) 博が事件発生前夜食べた落花生の薄皮がちよ子の死体に付着していたこと。
この点に関する被告人らの主張は、「博はちよ子の死体が発見される前日の五月一一日夕刻丸正運送店洋服部の店先に腰かけて落花生を食べその薄皮を洋服部の土間に捨てたまま自宅に帰宅したと供述しているが、その翌一二日死体検証の際その左腕肘部に落花生の薄皮が付着し、また同店洋服部裏の流し場の洗面器の中にも落花生の薄皮が三片存在した。この事実に徴すると、博の身体に付着していた落花生の薄皮が犯行時にちよ子の身体に付着したもので、犯行後流し場の洗面器で手を洗つた際手に付着していた落花生の薄皮が洗面器に付着したものである。」というのである。
右主張について検討すると、当審における第九回公判調書中の証人小出栄太郎の供述部分、証人小出博の当公判廷における供述、小出栄太郎の司法巡査に対する昭和三〇年一〇月一三日付供述調書石塚検証調書によれば、博は五月一一日午後五時頃運送店の仕事を終つてからその隣りにある「丸見屋酒店」へ行つて焼酎を呑み午後六時頃丸正運送店へ戻つたが、その際右丸見屋で焼酎のつまみに買つたセロフアン袋入り落花生の残りを持ち帰り洋服部の上り口に腰かけて食べ、その時傍らにいた栄太郎の二男和宣(当時三歳)にもその幾分を与えたが、その時剥いだ落花生の薄皮を洋服部の土間に散乱させたままにして置いたこと、右和宣は、店先の四畳の間でこれを食べたことが認められる。しかし、博が一一日の午後六時頃食べた落花生の薄皮が犯行時まで数時間に亘つて博の手に付着していたことを前提とする所論は、薄皮が一般的に粘着性に乏しいという特性に鑑みると、容易に肯認しがたいものがあるばかりでなく、死体の肘部に付着していた薄皮は鈴木自白にいうように、ちよ子が洋服部土間において絞殺された際に同女の身体があるいは一旦土間に横たえられた時付着したか、または同女の死体が発見された四畳間に置かれた際、或いは栄太郎によつてあお向けにされた際、博と和宣が食べた際に捨てた薄皮が偶々同所に落ちていて、これが死体の左肘部に付着したということも推測しうる余地がある。また薄皮が炊事場にあつた原因は、これを確めるべき何らの証拠もないが、前記のように博から落花生を貰つた和宣が当時同店内を自由に歩きまわれるほどに発育していたことは証人小出栄太郎の当公判廷における供述によつて明らかであるから、右和宣が博から貰つた落花生を食べながら歩きまわつた結果その薄皮が洗い場の洗面器まで運ばれたのではないかと考える余地もある。それ故、前記のように死体に落花生の薄皮が付着していたという事情は博の犯行であることを疑わしめる事由とは認めがたい。
(五) 犯行時前後における博の所在について
被告人らの主張に従えば、共犯者の一員である博は少くとも五月一一日午後一一時前後から、短くとも一時間余前記丸正運送店内の何処かにいなければならない筈である。この点について証拠を検討するに、まず博本人は当公判廷で証人として前記(四)に示したとおり同日午後六時頃前同所内の洋服部店先に来て落花生を食べながら約三〇分間栄太郎と雑談などしてからいう方自宅に帰り、夕食後其の儘レコードを聴き平常のように午後九時三〇分から午後一〇時までの間に階下奥の八畳間で就寝し、前記のように栄太郎から一二日午前二時三〇分頃呼び起されるまで眠つていたといつている。博が前記犯行時の前後に亘り丸正運送店にいたという直接証拠は全く存しないところであつて、ただ証人高橋幸蔵は昭和三〇年六月二〇日付司法巡査に対する供述調書では、同人は一一日午後九時前後前記いう方に赴いて玄関で立ち話をしたが博は見かけなかつたと供述し、当公判廷においては博を見かけなかつたが、襖をへだてた奥の八畳間にいたようでもあると甚だ瞹昧な供述をしている。若しこの供述から博が被告人主張の犯行時にいう方にいないということを推測し得る一資料になるというならば、(被告人正木{日大}の丸正名誉毀損事件に対する供述の要旨その一の一八八頁参照)右高橋証人は更に前記いう方を出て直ちに丸正運送店洋服部に行きちよ子と金銭貸借の件で要談したのであるが、その際栄太郎がそこに居り二、三言葉をかわした旨供述しているのであるから、右と同様博が被告人らの主張する犯行時に前記丸正運送店にいないことの推測も可能ということになろう、従つてこの高橋証人の供述を使用して犯行時の所在を推断する資料とすることは余りにも飛躍に過ぎるものというのほかはない。更にこの点に関し当公判廷において証人酒井邦雄は一一日午後八時頃同人が前記いう方を訪れた際、ちよ子は既に丸正運送店に出かけて不在であつたが、博は在宅し階下奥の八畳間に寝ていた、自分は九時か一〇時頃同家を立ち去つた旨供述している。これら博や酒井邦雄の供述を覆して被告人らの主張するように博が丸正運送店内にいたことを推認せしめるに足りる何ものをも発見できない本件においては、この事柄は博の犯行を推認するための強力重大な障害となるものと考えられよう。
〔七〕 結論
以上被告人らの所論に従つて種々検討を加えたのであるが、各所論の個々の事実を、前記二の〔三〕に述べた意味において、首肯するに足りる証拠は遂に発見できなかつた。更に以上に認定してきた諸事実を彼之総合して被告人ら主張のように栄太郎、幸子、博の三名が丸正事件の犯人であることを推認することができるであろうか。不明確な事実、合理的な疑いを容れる余地のある蓋然性しかない事実ないし証拠価値の乏しい証拠等を如何に多く積み重ね総合しても、それだけで直ちに主張事実が合理的な疑を容れる余地のない蓋然性を帯びて来るとか、証拠価値を増して来る筋合ではなく、ただこの場合他に疑いを解消することのできる証拠ないし証拠価値を増強する証拠など強力なものが加わつて、これらを総合すれば主張事実を肯認できる場合のあることは言を俟たないところである。ところが本件では以上に検討したように臆測の範囲を出でない事実と疑いをさしはさむ余地のある事実ないし証拠等は存在しても前に述べたような意味の強力なものは発見できなかつたのであるから、結論は否定的とならざるを得ない。それ故被告人両名の丸正事件の犯人は栄太郎、幸子、博の三名と摘示した事実の真実性は証明十分とは認められない。
第二正当行為の主張について
弁護人はかりに前記各主張がいずれも理由がないとしても、本件は被告人両名が李得賢ら両名の弁護人としての業務に基づいてなした正当行為であるから刑法第三五条の規定により名誉毀損罪は成立しないと主張する。
なるほど刑事事件の弁護人となつた者は被告人の利益を擁護する訴訟上の権限を有するからその権限に基づいてした行為の結果他人の名誉を毀損したとしても、それは正当な業務行為として違法性を阻却するものと解すべきである。しかし、被告人の利益擁護のためにした行為であつても、それが弁護人としての訴訟上の権限に基づく行為によるものでないかぎり、それは正当な弁護権の行使ということはできないから、名誉毀損罪の違法性を阻却する理由とはならない。そこでこれを本件についてみるに、被告人両名がなした前判示の各名誉毀損行為は李得賢ら両名の寃罪を晴らすための救済活動の一環として、当該事件の審理の場を離れた訴訟外においてなされたものであることは前記認定のとおりであつて、訴訟上の権限に基づいてなされたものではないから、正当な弁護権の行使の範囲を超えるものといわなければならない。
更に弁護人は、本件各名誉毀損行為が、単に犯人は栄太郎らであるとして告発する手段によるのみでは捜査機関の発動を期待することはできず、また再審請求も実効を期待し得ない現状に鑑みてやむなくとられた手段であるから正当行為というべきであるという。もとより捜査権の行使や再審制度が適正に行われなければならないことはいうまでもないところ、本件において、被告人両名が前示のような栄太郎らを真犯人とする正式の告発手続または李得賢ら両名に対する再審の申立手続をしていないことは被告人両名の当公判廷における各供述に照らし明らかであり、また判示第一の所為に及ぶ以前に、被告人両名が最高検察庁に対し再捜査の申入をしたのにかかわらず、検察官において職権の発動をしなかつたからとて、それは、李得賢ら両名に対する上告審が係属中のことであつたから、直ちにこれを不当視することはできない。なお、現在わが国の再審制度の在り方についてこれを批判する見解があり、その運用に当を得ないところがあるにしても、その違法性が明白である場合を除いては須く法定の手続を履んで救済を求めなければならない筋合である。従つて、一般的に捜査機関の捜査権の運用や再審制度の運営の実情について被告人両名の意に充たない点があるからといつて、本件名誉毀損の手段に敢えて出でたことは、手段としての正当性を欠くもので、正当行為として許されるべきでないと認められる。従つて、弁護人の右主張は理由がない。
第三犯意阻却の主張について
一、弁護人は更に右主張がいずれも理由がないとしても、被告人両名は摘示事実が真実であると確信して事実の摘示に及んだものであり、しかも摘示事実が真実であると信ずるについて相当な理由があるから、名誉毀損罪の犯意を阻却し、同罪は成立しないと主張する。この点について検察官は、死者の場合を除いて人の名誉を毀損する事実を摘示した場合には、その真否を問わず名誉毀損罪は成立するのであつて、刑法第二三〇条ノ二に規定する摘示事実が真実であることの証明があつたときは、単に処罰を免れるに過ぎないと解すべきであるから、行為者がたとえ摘示事実が真実であると確信していたとしても、そのことは犯罪の成否となんら関係がないという。
しかし、刑法が名誉毀損罪について事実証明の制度を設けた趣旨は、人の名誉は、それが、たとえ虚名であつても一応これを保護尊重することが社会生活の利益に合致するから、名誉毀損罪の成立には死者の場合を除くほか、摘示事実の真否を問わないものとしながら、反面公益の維持または重要な社会的利益の保護のために必要な真実の公表についてまで犯罪が成立するものとしたのでは、言論の自由は重大な制限を蒙ることとなるのに鑑み、一定の場合を限つて事実の証明を許すこととし、もつて伝統的な個人保護本位の思想と公益保護の要請との調和を図ろうとしたものと解される。従つて公益を図る目的で公共の利害に関する事実を摘示した結果人の名誉を毀損したとしても、その摘示事実の真実であることが証明されたときは、検察官所論のように単にその処罰を免れるに過ぎないものと解すべきではなく、既に行為自体の違法性が阻却されるものといわなければならない。ところで行為者が真実でない事実を真実と誤信してその事実を摘示し人の名誉を毀損した場合において、その行為者は名誉毀損罪を構成する事実に関してはその認識になんら欠けるところはなく、ただ錯誤により自己の摘示した事実が真実であつて摘示行為の違法性を阻却するものと確信していたに過ぎないものといわなければならない。それ故、行為者がただ主観的に摘示事実を真実であると信じていたとしても、それだけで直ちに故意の成立が否定されるものではないけれども、ただ行為者がかかる誤信に陥るについて相当の理由があると認められる場合には、何人についても当初から違法の意識を全く期待できない筋合であつて、その行為者の認識に道義上非難すべき点を見出し難いから、かかる場合は行為者の故意を阻却し、罪を犯す意思のないものと解するのが相当である。そこでいまこれを本件についてみるに、被告人両名が判示各摘示行為にあたり、それが真実であると信じていたことは被告人両名の当公判廷における各供述に照らして明らかであるけれども、前記のように摘示事実の真実であることの証明はないのであるから、被告人両名の右の確信も結局誤信であつたと云わざるを得ない。従つて果して被告人両名がかかる誤信に陥るについて相当の理由があるか否かについて更に検討が加えられなければならない。
二、弁護人は、被告人両名の前記主張は、ちよ子の死体発見時既に死体に硬直が存在すると認められること、その他死体顔面部などに付着した血痕の状況及び死体所見を仔細に観察した結果に基づくもので、少くともこれらの点については大村鑑定によつてその主張の正当なことが裏付けられ、その支持を得ているのであるから、この点からも真実であると信ずるについて相当な理由があるという。なるほど、死体硬直の存在に関する前記主張事実が大村鑑定の結果と符合していることは所論のとおりである。しかし死体硬直の点に関する前記鑑定はその前提をなす三枝孝四郎の供述自体信憑性に疑いを容れる余地のあることは前記のとおりであつて、このように信憑性に疑いを容れる余地のある鑑定資料に基づいた鑑定結果と主張事実が偶々一致したところで何等その主張を理由あらしめることとならないのはもとより、右三枝孝四郎の供述が措信しがたいものであることは、被告人両名が検討した丸正事件記録に現われた証拠、就中杉山忠、小出栄太郎の各供述、鈴木鑑定、死体写真に照らして容易に認識し得た筈であるから、未だ誤信に陥つたことの相当性を裏付ける理由ともならない。またちよ子が仰向きにされた状態で殺害され、殺害後死体発見現場へうつ向きに置かれたという前記主張も果して死体が場所的に移転されたか否かの点を除いて略大村鑑定と符合しているけれども、大村鑑定によつて裏付けされた右主張事実も李得賢ら両名による犯行であることを否定する資料とは認めがたいばかりでなく、被害者方内部の者による犯行であることを裏付ける資料とも認めがたいこと既に前記〔五〕、(二)、(2)において認定したとおりであるから、これまた被告人両名の前記誤信の相当性に寄与する事由とはならない。
更に丸正事件を実行するためには犯人が三人以上存在することを要するという前記主張が必ずしも大村鑑定の支持を得たものと認めがたいことは、さきに〔五〕、(三)において認定したとおりである。従つて被告人らの前記主張事実中の一部に大村鑑定と符合し裏づけされた部分があるということは、所論のように摘示事実が真実であると信ずるについて相当な理由があるとすることの論拠とはならない。
三 そしてさきに認定したところから明らかなように、本件についてはただ単に栄太郎ら三名が犯人であることの証明が存しないばかりでなく、栄太郎ら三名の犯行であることを疑うに足りる相当な理由さえ認めがたいのである。それにもかかわらず、被告人両名が前記の証拠から栄太郎らが犯人であると即断したのは、畢竟証拠価値の評価を誤つたというほかはない。また栄太郎らが丸正事件の犯人であると指摘するためには、まず肉親であり或いは夫の実妹であるちよ子の殺害を企図するに至る動機が果してあるか否か、更に栄太郎らが果して本件兇器である死体の口部を縛るのに用いられた手拭を入手しうる蓋然性があつたか否かの点が慎重に検討されなければならない。また決定的な直接証拠が存在しない、いわば状況証拠のみによつて立証を果そうとする本件においては、これらの点は栄太郎らが犯人であるか否かを決するうえに最も重要かつ基本的な事項といわなければならない。しかるに、被告人両名はこれらの点についての証拠を単に確定事件記録の中にだけ求めたことが被告人両名の当公判廷における供述によつて窺われるけれども、いかに右事件記録を精査しても、これに現われた証拠からは犯行の動機の存在を窺うことができないことは前記のとおりである。また第一審第八回公判調書中の証人山田昭雄、同水野義猛の各供述部分によれば、死体の口部を縛るのに用いられた右手拭は、染色業を営む山田昭雄が静岡懸藤枝市所在の大一トラツク藤枝営業所の依頼によつて昭和二九年末に製造して納入した年賀用手拭約三〇〇本中の一本であり、同営業所はこれらを翌三〇年正月、年賀用として得意先、近隣者、同営業所に立寄る大一トラツクの自動車運転手と助手に贈つたことが認められるけれども、栄太郎ら三名のうちの何人かに直接右手拭を贈つた事実は認められない。ただ、なるほど所論のように、博の友人で同人方の近隣に住む大一トラツクの運転手をしていた小出嘉一が、李得賢の運転する一〇五号車の助手となつて同営業所に立寄つた際、右手拭一本を貰つたが、同人はその後これを使用中本件強盗殺人事件の発生する以前に紛失したことが、同人の当公判廷における供述によつて認められる。しかし、果して何処で紛失したか明らかではないのであるから、如何に同人と博と交友関係があり、住居が接近していたからといつて博らがこれを入手していたと推認することはむずかしい。また他に栄太郎ら三名が右手拭を入手する蓋然性のあつたことを認めるに足りる証拠はない。更に被告人両名が栄太郎ら三名に対し犯人ではないかという疑いを投げかけた前記各事由についても、単にその外形的事情に捉われて一方的な判断に陥ることのないよう慎重な態度で臨むべきことはいうまでもないところである。従つて被告人両名としては事実摘示に出でる以前に予め自ら積極的に栄太郎らに面接して右の事情についての弁解を求め、更にその弁解について新たな検討を加えるべきであつたし、またかかる検討を加えられていたならば、被告人両名は右誤信に陥ることを避け得たものと思われる。それにもかかわらず、被告人正木の当公判廷における供述と被告人正木よりの栄太郎宛封書一通(同号の四九)によつて明らかなように、被告人両名は栄太郎らが被告人正木の許まで出頭されたい旨の唯一回の照会をしただけで栄太郎から右被告人の意に副うような回答を得なかつたという理由から、それ以上栄太郎らに面会を求めようとしなかつたのであつて、この点は前記のように犯行の動機、兇器である手拭の入手の蓋然性の検討が粗漏であつたと同様、証拠資料の蒐集が不充分であつたという非難を免れがたい。
このような被告人両名の前記の誤信は証拠価値の評価の誤りと証拠の蒐集の不充分であつたことに由来するもので、いやしくも弁護士として通常の法律的知識経験を有するものであれば、かかる証拠価値の評価の誤りを避け、証拠資料の蒐集の十全を期し得たものといわなければならない。それ故当然行うべき証拠の蒐集をせず、単に前記証拠のみから栄太郎らが犯人であると即断し自分らが寃罪と信ずる李得賢らの救出に急なあまり前判示事実の摘示に及んだのは軽卒な行動であつたというのほかなく、誤信については到底相当な理由があるということはできない。それゆえこの主張もまた理由がない。
(法令の適用)
被告人両名の判示各所為はいずれも刑法第六〇条、第二三〇条第一項罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するが、判示第二の罪は一個の行為で三個の罪名に触れる場合であるから、刑法第五四条第一項前段第一〇条により一罪として犯情最も重い小出栄太郎に対する名誉毀損罪の刑に従い所定刑中いずれも禁錮刑を選択し、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから、同法第四七条本文第一〇条により犯情最も重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内で被告人両名を禁錮六月に処し、情状により同法第二五条第一項を適用して被告人両名に対しこの裁判の確定した日から一年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文第一八二条により被告人両名に連帯して負担させることとする。
(量刑事由)
被告人両名が本件名誉毀損の各所為に出でた主たる動機目的はさきに説示したとおり、李得賢ら両名の寃罪を確信し、これを晴らそうという意図のもとになされたもので、たとえそれが誤信であつたとはいえ、世上まま例をみる興味本位の暴露的意図の下に出たジヤーナリズムによる名誉毀損事件とは全く異質の事犯であることはあえて多言を要しない。従つて、被告人両名が社会正義の実現という弁護士本来の使命感に駆られて李得賢ら両名の寃罪証明に注いだ熱情は諒とすべきものがある。しかしながら、いわゆる「マスコミ」を利用してひろく社会に判示事実を公表した本件事犯の規模と、婉曲な表現を用いることなく直接具体的に氏名を明示して強盗殺人罪という最も兇悪重大な犯罪の犯人であると指摘したことによつて、被害者らに蒙らせた名誉侵害の程度に鑑みると、被告人両名の責任は軽視することのできないものがあるといわなければならない。以上指摘した点その他諸般の情状を斟酌して主文のとおり量刑した次第である。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 江碕太郎 播本格一 片岡聰)